古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑥文正の政変

将軍義政には深刻な悩みがありました。結婚して10年が経つのに未だに男子に恵まれなかったのです。そこで義政は一計を案じます。弟で出家の義尋を還俗させて後継者にする事です。当初は固辞していたという義視ですが、再三の要請についに承諾しました。勝手な想像ですが同じく僧侶の身から将軍となった父の無残な最期が影響していたかもしれません。しかし、兄の頼みを断りきれずに還俗を決意したわけです。こういうのって大抵、実子ができたりして揉め事になるんですよね。案の定、次の年に義政に男子ができました。

義政は義視に男子が生まれてもお前を将軍にすると約束したそうですが、さすがに将軍の実子というのは無視できません。そもそも義政は早急に次期将軍の手配を済ませる必要があったのか。結婚して10年が経過したといっても奥さんの日野富子はまだ25歳でこれまで男子こそ授かりませんでしたが女子を二人産んでおり子供ができないわけではありません。それに男子ができたという事はまだ夫婦生活は破綻していなかったという事です。もう少し待っても良かったのではないでしょうか。

一説には義視は義尚が成長するまでの中継ぎとする事で解決を図ったそうなんですが義視にも実子ができてしまうと義視にだって自分の子に将軍職を継がせたいと思う気持ちはあるでしょう。当面は義視が次期将軍の最有力候補になったようですがそれを面白く思わない人がいました。将軍の側近伊勢貞親です。

伊勢氏は貞継以降政所執事をほぼ世襲してきた家柄で幕府の財政を支配していました。さらに侍所の業務の一部を吸収して禅宗の統制も図るなど権限を強化してきました。貞親は将軍義政の養育係で父親代わりみたいな存在で将軍に影響力を及ぼせる人でした。実際に越前守護と守護代の対立では将軍は貞親の縁戚にあたる守護代を贔屓にしています。さらに武家故実に精通しているなど財務・実務だけでなく礼儀作法にも長じたりとなかなか有能な人物でした。礼儀作法ってどうでもいいだろと思われるかもしれませんが室町時代には結構大事だったんですよ。

力で諸侯を抑えつけていた江戸幕府と違って足利幕府は大名を処分するのに軍事力を動員する事が幾度かありました。これだけ見ると足利幕府が暴力的に思えるでしょう。しかし、これは江戸時代の将軍や大名が室町時代の将軍や大名よりも平和主義者だった事を意味していません。江戸時代の大名が逆らおうという気力すら失せるくらい幕府の軍事力が圧倒的だっただけです。しかし、室町時代の幕府には大名を命令一つで取り潰しできる軍事力がありませんでした。そこで礼儀作法で上下関係を躾ける事にしたわけです。日本の面倒な礼儀作法は室町時代にできたって聞いた事があります。礼儀作法の他にも身分によって幕府からの待遇が変わったりします。もっとも戦国時代になると家柄ではなくて実力でもって幕府からさらに上の待遇が与えられたりしてしまうわけですが。

その伊勢貞親ですが彼は義政実子の義尚の乳父でもありました。義視には細川勝元がついている上にすでに成人して貞親とは接点がないので義視が将軍になっても貞親には利がないばかりか下手すれば干されるかもしれません。いや細川勝元は間違いなく貞親を排除しにかかるでしょう。貞親が推し進めていた政策例えば不知行地還付政策(いろんな理由で不知行となった寺社領を元の寺社に還付する。いろんな理由とは言ってみれば守護やその家来による横領)などは守護にとっては抑圧でした。勝元としては消し去りたい人物だったはずです。貞親もそれは承知でしょうから保身のためには義尚が将軍になるしかありません。たとえ中継ぎであっても義視を将軍にするわけにはいきませんでした。

前回、斯波氏の内紛について取り上げましたが斯波義敏追放後の斯波家の家督となった義廉は実父の失脚と奥州探題との交渉の失敗によって急速に立場を悪くしていました。そこで義政と貞親は義敏を復帰させる事にしました。義敏は奥州探題と昵懇で激しく対立していた守護代の甲斐常治も亡くなっているので復帰に障害はありませんでした。無論、義廉はそれに反発します。対抗策として畠山義就と提携して母が山名氏の出という縁をたどって山名宗全に接近して宗全の娘を娶ります(1466)。この山名派の形成を貞親は妨害しようと斯波氏と山名氏の婚姻解消を図ります。そして、義政が越尾遠三ヶ国の守護に義敏を任じた事で正式に義敏の復権が決まりました。対抗策も虚しく義廉は失脚してしまいました。しかし、直後に事態は急展開を迎えます。

1466年9月、義視は兄の義政が自分を追討しようとしていると聞いて仰天します。義視が将軍に陰謀を企んでいるという嫌疑からでしたが義視には身に覚えがありません。義視に泣きつかれた勝元は義政に弁明をします。結果、義視の陰謀は貞親と蔭涼軒主季瓊真蘂の讒言だと判明しました。義政から切腹を命じられた貞親は近江へ逃亡、季瓊真蘂や赤松政則斯波義敏も京都を脱出します。義敏は先月に復帰したばかりでした。この文正の政変で義政は有能な片腕を失い親政の野望は頓挫しました。そして、幕府の実務能力の低下は後の細川政元による京兆専制の遠因となったのでした。

伊勢貞親の失脚で将軍と有力守護の権力抗争はひとまずは守護側の勝利に終わりました。しかし、山名派の形成は細川勝元との対立を生みました。畠山義就斯波義廉も勝元と対立しており、宗全も斯波氏の家督交代に管領だった勝元と畠山政長の関与を疑っていました。勝元と宗全は元々縁戚関係で畠山持国伊勢貞親という共通の敵がいたこともあって協力関係にありました。しかし、その敵がいなくなった上に勝元に実子ができて養子の豊久を出家させた事で宗全との縁が薄くなってました。そして、両派の対立は収まる事なくついに日本の中世最大の内乱へと向かっていくのでした。

応仁の乱⑤斯波氏の内紛

斯波氏は足利尾張守家が前身で幕府の創業の功臣である足利高経の四男斯波義将が執事に任じられ高経が後見するという形で細川氏と斯波氏が管領に就任する体制ができました。後で畠山氏が加わって三管領となります。

執事の義将をなぜ高経が後見するかと言うと義将が13歳だったからです。13歳で執事?と思われるでしょうがこれは父の高経が執事になるのを頑なに拒んだ結果でした。執事は足利家の家政機関の長で足利家の家来が務める職です。鎌倉時代は宗家とは別に御家人に列して形式上は宗家と同格という誇りから高経は執事になるのを拒否したのです。高経としては一門として宗家を支えても家来として仕えるつもりはないという事でしょう。

武家の一門というのは家来ではありません。松平家忠は松平一門として徳川家康をあくまで一族の代表とぐらいしか思ってなくて日記に織田信長を上様と敬称しているのに対し家康は呼び捨てにしています。これは徳川家の人間でさえ信長と家康の関係をもはや主従関係に近いと認識していた事を意味しています。家忠が家康を主君と心の中でも認めるようになったのは家康が織田家と対等の関係になる小牧・長久手頃です。

また江戸幕府でも親藩大名は幕府の役職には就きませんでした。松平定信が老中になったのは譜代の久松松平家に養子に行ったからです。さらに言うと徳川斉昭を無断登城の咎で処分する時に井伊直弼は将軍の名を使う必要がありました。大老ですら斉昭を処分するのに自分の名ではできなかったのです。

話が逸れてしまいましたが、高経は大内氏や山名氏を帰順させて幕府を安定させるのに貢献しました。先述したように創業の功臣と言える人ですが、一方で幕府の要職を一門で独占しようとするなど専横や政策の性急さに反発する大名も多く貞治の変で失脚しました。高経は幕府軍に城を包囲される中を失意のうちに没しました。

高経が没すると義将は赦免されて康暦の政変で細川頼之を失脚させて管領に復帰します。その前に武勇の誉れ高い桃井兄弟を討ち破り越中を平定する軍功を挙げています。その越中は畠山氏の越前と交換で手放しましたが、一時は一門で越前・加賀・信濃遠江尾張守護職を手にして絶対権力者となった将軍義満でさえも一目置かざるを得ない存在となった義将は斯波氏の全盛期を築き上げたのです。

しかし、義将が没すると斯波氏は徐々に斜陽していきます。先述のように鎌倉時代は宗家と同格だった(始祖の尾張守家氏は元々足利泰氏の嫡男だったが得宗と名越の抗争の煽りをくらって廃嫡された)尾張足利家の流れをくむ斯波氏(記録上では斯波氏と称したのは義将から)は同じ足利一族でも家臣同然だった細川氏や仁木氏などとは家柄が比較にならず三管領でも筆頭の家格を誇っていました。その家柄の良さゆえに他氏からは敵視されやすく実際に高経は失脚しています。義将没後の斯波氏は義重はまだしも義惇は将軍義教と対立、義郷は将軍に気に入られるものの家督相続後3年で事故死、義健は2歳で家督相続して18歳で死去と全く振るわなくなりました。また幕府内の立場だけでなく領国経営でも仕事柄京都に常駐する悲しさどうしても部下任せになってしまって統制が緩んでしまいました。斯波氏は細川氏や畠山氏と違って領国が京都から離れているうえに残った越前・遠江尾張も離れ離れの位置にあるので一元的な管理もできませんでした。そのため斯波氏は戦国時代になると越前と遠江の確保に失敗して尾張だけを統治するようになりました。その尾張さえも実権を無くして最終的に織田信長によって国を追われることになります。

義健には子がいなかったので分家の義敏が斯波家の家督と越尾遠の守護職を継承しました。しかし、義敏は重臣の甲斐美濃守と対立してしまいます。義敏のお父さんと甲斐常治は幼少の義健を支えていましたが対立しており当然、義敏も常治には良い感情を持っていませんでした。斯波家は義敏派と甲斐派に分かれてしまいました。1456年、甲斐氏の専横を将軍義政に訴えた義敏ですが将軍は甲斐氏に肩入れした裁定を下します。実は甲斐氏は陪臣ではありましたが、将軍とも太いパイプを持っていてしかも将軍側近の伊勢貞親とも繋がりがあったのです。先述したように斯波家当主は在京が常であり領国の実権は守護代に奪われつつありました。将軍としても一方的に片方に肩入れするわけにもいかずどうにか間を取り持って仲直りさせるしかありませんでした。といっても先述したような甲斐常治との関係から常治をひいきする事が多くそれが義敏の反感を買ってしまいます。

その頃、関東では鎌倉公方成氏と関東管領上杉氏との間で享徳の乱と呼ばれる戦争が始まっていました。義政は成氏の討伐を指令し成氏は今川範忠の攻撃で鎌倉を追われて以後は古河を拠点とします。成氏の後任に義政は異母兄の香厳院主清久を還俗させて渋川義鏡を補佐役につけて派遣しました。後の堀越公方です。ここに鎌倉公方古河公方堀越公方に分裂することになりました。

義政は義敏と常治に関東への出陣を命じます。しかし、双方の対立はもはや修復不可能となっていてとても関東に遠征できる状態ではありませんでした。義政もそれは承知だったでしょうが、義敏は遠江守護なので関東への軍隊派遣に適任で奥州探題(斯波氏の分家)とも仲が良いので奥州の軍事力もあてにできました。義政としても常治にばかり肩入れするわけにもいきませんでした。どうにか仲を取り持ったものの和解は形式上に過ぎず常治が病床にあると知った義敏は越前に軍を派遣してしまいます。長禄合戦の始まりです。とうとう内戦にまでなってしまいましたが義政は常治を越前守護代と改めて認定し若狭・能登・近江らの国人に常治への援軍を命じます。こうなると義敏は越前守護を罷免されたも同然で激しく抵抗するも敗北して大内氏を頼って西国に落ちのびました。後任の守護は義敏の子松王丸が任命されましたが傀儡であるのは言うまでもないでしょう。

斯波氏が内紛で混乱している間に堀越公方古河公方に大敗して関東情勢は緊迫していました。堀越公方の補佐には渋川義鏡の他に義敏もあたるはずでしたが、義敏の追放で義鏡一人で堀越公方を支えなければならなくなりました。といっても義鏡は守護ではないので自前の軍事力がありません。しかも今川範将が遠江に侵攻する事件も発生しててんてこ舞いの状態でした。さらに義敏を追放した事で奥州や関東の有力な武将が幕府の古河公方追討の命令に応じなくなりました。

そこで義政は松王丸を出家させて義鏡の子義廉に斯波家を継がせました。そうする事で義鏡は尾張遠江の軍事力をあてにできるからです。ところがその翌年に義鏡が関東管領との間に確執を起こして失脚してしまいました。古河公方の追討には奥州探題の力が欲しいところですが義敏と違って義廉には大崎氏との間に太いパイプがありませんでした。そうなると義政としては義廉を斯波家当主にしておくメリットはありません。ちょうど甲斐常治も亡くなっていた事もあり義政は義敏父子を赦免します。その裏には細川勝元の後押しがあったようです。

しかし、義敏が復帰する事は言うまでもなく義廉の立場を決定的に悪くします。当然、義廉は保身に動きます。畠山義就山名宗全と連携する事です。義敏も畠山政長細川勝元と提携します。それに大内氏が山名派に赤松氏が細川氏に組して両派は対立を深めていく事になります。

応仁の乱④金吾家→総州家vs尾州家

畠山氏は足利義純畠山重忠の未亡人と結婚した事で平姓から源姓に移行しました。名門畠山氏の名跡を継いだという事で斯波氏に次ぐ待遇を足利宗家より受けます。嫡流観応の擾乱で奥州に追いやられ二本松氏として零落し、庶流が取って代わって管領となります。これが新しい嫡流の金吾家です。畠山氏の管領就任によって三管領が成立しました。

前回、畠山持国の後継を巡る内紛をちょこっと触れましたがもう少し詳述します。持国は老練な政治家で細川勝元山名宗全が提携していたのも彼に対抗するためでした。その持国には後を継ぐ男子がいませんでした。そこで弟を後継者に指名したのですがその後に実子の義就が生まれてしまいました。持国は弟の後継指名を取り消して義就を次期家督としたわけですがその決定に家臣の中から反発する者が現れました。この混乱で将軍義政の支持を受けるために尾張守護代問題で将軍の意向に従う姿勢を見せたわけです。それはさておき、持国は失意のうちに亡くなった弟の子義富の擁立を画策した神保次郎左衛門らを成敗しますが、肝心の義富は細川勝元が匿ってしまいました。義富派の被官人も山名宗全に保護されました。数ヶ月後には義富派が反撃して持国邸を攻撃して持国を隠居に追い込みます。さらに勝元は義政に働きかけて義富の家督継承を認めさせました。

これが混乱の始まりでした。持国・義就父子を支持していた義政は義就を伊賀に匿っていて、わずか数ヶ月後に今度は義富が没落したのです。それでこのまま義就が畠山家の惣領に落ち着けばよかったんですが翌年に大和に逃げた義富を討伐に向かったあたりから将軍との関係が微妙になっていきました。2年後の1457年に大和の多武峰の衆徒と中村里の間で境争論があった際に義就が勝手に将軍の上意だと偽って事態の収拾を図ったと知った義政は激怒して義就の知行の一部を召し上げてしまいました。さらに大和の衆徒らに義就の被官人らの治罰の奉書を与えており、義政は義就を見限るようになりました。追い打ちをかけるように二年後には義富の復権が決定、二ヶ月後に死去するものの弟の政長が擁立されます。義就と政長は四年に渡り交戦しますが治罰の綸旨と旗が下された義就の不利は決定的で吉野に落ち延びていきました。

義就の敗因は将軍の不興を買った事、支援者の今参局が失脚した事、隠居していた山名宗全復権して細川勝元と共に義富や政長を支援した事などが挙げられますが畠山氏の内紛はこれで収まったわけではなく、名将の誉れ高い義就はその後もしぶとく戦い続け大和だけでなく河内や紀伊にまで勢力を拡大し討伐に来た管領の政長を破る強さを見せつけます。それでも義就は賊将にすぎませんでしたが細川勝元山名宗全が対立した事で義就そして政長の運命も二転三転していくのでした。

畠山氏は基国の代で初めて管領に就任し、満家は大内義弘を討ち取るも将軍義満に疎まれ一時失脚、義持の代で復権して義持死後の将軍選抜を籤引きに決定して結果的に義教の恐怖政治を招きます。ただし、満家存命中は義教の権力も抑制されていました。持国は義教に疎まれて弟に家督を譲らされますが嘉吉の変後に弟を殺害して復帰、義教に家督を追われた者の復帰を支援して自身の勢力拡大を図るも細川氏との対立を招き各地で大名の家督争いを誘発させます。最後は自身の家でも家督争いを招き、畠山氏嫡流を分裂させてしまいました。持国より後については後日にしたいと思います。

次回は斯波氏の内紛“武衛騒動”です。

応仁の乱③将軍義政

足利義政は将軍義教の五男として生まれました(1436)。幼名は三春。兄の義勝が病死した事で8歳で足利家の家督を継ぎました。1446年に後花園天皇命名で義成と名乗りました。将軍になったのは3年後で前将軍の死から6年が過ぎての就任でした。義政と名乗ったのは1453年からです。後土御門天皇の諱が成仁だったからだとされています。

ここまでで注意しておきたいのは義政は義勝のすぐ下の弟ではないことです。義勝と義政の間にいる者で有名なのは後に堀越公方となる政知ですが義政の兄なのに弟とされてしまいました。これは義政が義勝の同母弟だったことからの処置でした。似たような事例に鎌倉時代の執権・北条時宗とその兄の時輔があります。時輔は長兄でしたが庶子だったために時宗はおろかそのさらに弟の宗政よりも序列が下にされてしまいました。幕府にとって義勝の死は予想外でまだ子供でしたから当然、後継者となる子供はいません。それで幕臣らが話し合って母が同じである義政に白羽の矢が立ったのでした。さすがに籤引きで決める事には懲りたようです。

将軍となった義政は御教書という文書に署名・花押ができるようになりました。御教書とは将軍が出す命令書とでも思ってたらいいと思います。将軍の花押が据えられたものは御判御教書といって武士の財産である所領の給与や安堵に使われました。受け取る側にとったら自分の土地の権利を証明する効力がある大変ありがたい文書ですが義政は将軍になってから6年ほどは御教書を発給していません。管領が出す下知状が代わりの役目を果たしていました。これは義政がまだ14歳だったことも関係しているんでしょうが先々代の義教による将軍独裁の企てが多分に影響しているものと思われます。籤で選ばれた義教は始めこそ幕臣に遠慮していましたがやがて独裁を目論みます。評定や引付の復活や賦奉行の管領からの分離は管領の権限を抑圧するものでした。ただ権力を自身に集中させるのは父の義満もやっていたことですが義教は猜疑心が強すぎるあまりに必要以上に家臣に強くあたるようになり些細な事で処刑するようになりました。『万人恐怖』と恐れられた恐怖政治の記憶は管領以下の幕臣たちの脳裏にまだ鮮明に残っていたでしょう。必然的に彼らは将軍権力の抑制に動きます。それがこの時代の正しい政治のあり方と考えられていたのです。さらに理由として推測できるのは義政の能力不足です。義政はとても安心して親裁を任せられるような将軍ではありませんでした。

義政は政治に無関心な将軍というイメージがあるようですが実際は父の義教が目指していた将軍専制を彼も目論んでいました。しかし、やる気はあるのですが義政には自分が決めた事を貫徹できない意志の弱さと社会の状況を理解できないという欠点がありました。義政は自分の思い通りの政治をしたいという意思はありましたが、それは世のため人のためなどではありませんでした。飢饉で人々が次々と倒れていっているのに新邸を建築させるような人です。飢饉対策として資金援助をするんですが、その動機が枕元に立った父が生前の罪を悔い貧しき人々が餓死する事のないようにしてほしいと伝えたからだそうです。つまりそれがなかったら決して多くはなかった資金援助すらしなかったかもしれないのです。相国寺の施餓鬼供養では一貫文を援助してますが支援といったらそれだけで相国寺は二百貫文を自己負担したそうです。飢饉で人々が苦しんでいるのに義政は遊興に明け暮れていて後花園天皇漢詩で諌められてもいます。やる気はあるけど為政者としての資質に欠けている将軍でした。

義教の暗殺で将軍親政は後退し将軍権力は有力守護たちによって抑制されるようになりました。それは将軍が幼いという事もあったんですが成長してくると自分で政治をしてみたいという欲求にかられるものです。義政とて例外ではなく将軍になったからには親裁したいと思うのは当然でしょう。しかし、彼は厳しい現実を思い知ります。

1450年すなわち将軍就任の翌年、尾張守護斯波千代徳丸の家臣織田郷広今参局(義政の乳母)に取り入って守護代復帰を企む事件が発生しました。というのも郷広は在国守護だったのですが寺社本所領を押領したために主君の千代徳丸だけでなく織田一族からも絶交されて逃亡してしまいました。復帰を目論んでいた郷広は今参局に働きかけて守護代復帰を画策したのでした。義政政権下で裏で政治を操っていた今参局に取り入る事で郷広は義政から在京守護代に補任されます。しかし、管領畠山持国がこれに異を唱えました。当初は賛成していた持国ですが甲斐氏ら織田家被官人衆の反対に遭うと職を賭してまで郷広の守護代復帰に反対するようになりました。

それに対し、義政は持国室を『御母』とし擬制的な母としました。これにより持国の嫡男義就は将軍の義兄弟のようなものとなり、それは家督問題に直面していた持国・義就父子への援護射撃となるものでした。義政は家督問題で家臣らの反発に遭っていた持国を支援する事で尾張守護代問題の自分への賛意を得ようとしたのです。持国は今参局と同調して郷広の守護代復帰に反対する甲斐氏らに圧力をかけます。将軍の上意に背くとしたのです。郷広の目論見は成就するかに思われました。

ところが予想外の事が起きます。義政のお母さんが反対したのです。一連の騒動が将軍によろしくないと言うのです。息子が聞く耳持たないと見たお母さんは嵯峨に隠居してしまいました。驚いたのは持国らの諸大名です。彼らは義政に懇願して尾張守護代問題には今後一切介入しない事を約束させました。一年以上続いた騒動はこれで決着がつきました。ここで注目したいのは騒動が正規の幕閣でない女官の口出しで始まった事と将軍が己が意を通すのに管領と取引しなければならなかった事です。そして、自身の意向よりも母の意向が優先される事を目の当たりにした義政は将軍権力の無力さを痛感します。以後、義政は将軍権力の確立に向けて奮励努力しますが、そこに細川勝元山名宗全という障害が立ち塞がります。この二人は縁戚関係にあって協力して将軍権力の絶対化を阻止しようとします。その状態が長く続けばよかったんでしょうが...。

次回は大乱の原因となった将軍家と管領家家督争いを見ていきたいと思います。

 

※追記として織田郷広今参局のその後について。郷広は斯波氏に許してもらおうとしますが弟の久広に殺害されます。この久広が郷広の復帰のために更迭された尾張在京守護代です。つまり郷広は弟を犠牲にして復帰を企んでいたのです。甲斐氏らの同僚が郷広の復帰に強硬に反対したのも頷けます。今参局は今回の件で義政のお母さんに睨まれ政治には今後一切関与しないと約束させられます。そして、義政の奥さんが流産すると呪詛したと嫌疑をかけられ完全に失脚して失意のあまり自害して果てました。

応仁の乱②細川勝元(1430〜1473)と山名宗全(1404〜1473)

細川勝元は持之の嫡男として生まれました。幼名は聡明丸。13歳で家督を継いで将軍義勝から一字を賜って勝元と名乗りました。少し早ければ教元に遅ければ政元になってたんでしょうね。13歳なので叔父さんが後見しました。16歳で管領に就任して以後辞任と就任を繰り返します。管領というのは段々と形骸していって必要な時にだけ就任して用が済んだらさっさと辞任してしまうだけの役職になっていきますがこの時点ではまだ交代で管領になっていました。

細川氏は足利氏の一族だったんですが鎌倉時代は零細な御家人で足利氏の家臣も同然の存在でした。南北朝時代に活躍したのが飛躍のきっかけでした。以後は管領を務める家柄の一つとして幕府内で重きをなし同族連合体という形で一族の結束を高める事で他の土岐、山名、大内、斯波、赤松、畠山といった有力守護が将軍の介入や干渉を受けてきたのに細川家はそれらを跳ね除け応仁の乱後も勢力を保つ事に成功しました。将軍は有力守護の内訌を利用して介入してくるのが常套手段なので一族が仲良しというのは大事な事でした。宗家は京兆家といって通字は『元』と『之』でした。

 

山名宗全は時熙の三男として生まれました。10歳で元服して将軍義持から一字を賜って持豊と名乗りました。持豊にはお兄さんが二人いて長兄は親よりも先に死んだので持豊はお父さんから後継者に指名されました。しかし、将軍義教は側近だった次兄を後継者にするようにとの意向を示します。結局は次兄が将軍の怒りを買ってしまったために持豊が家督を相続しました。次兄は挙兵して持豊に挑みましたが返り討ちにあって殺害されました。

こうした経緯から持豊は権威に阿らない傲慢な性格になったようで、応仁の乱の最中にとある大臣邸を訪問した時に大臣が戦乱で人々が苦しんでいると過去の例を挙げて持豊を諌めると「あなたは先例と言うが先例など建武の新政以来崩れ去っているではないか。なんでも過去の事例を取り上げるな。これからは『例』を『時』に置き換えるべきだ。先例が役立たない証拠に私のような匹夫があなたみたいな大臣と同輩のように話をしているだろ。そんなことは過去の事例になかったはずだ。つまり例とはいまこの時が例なのだ。すべては時勢なのだ。あなたが私の言っている事を理解してくれるなら私があなたを養ってあげますよ」と言い捨てて大臣を閉口させています。

山名氏は新田氏の一族ですが宗家よりも先に源頼朝に従った功績で鎌倉殿の一門である門葉に列しました。新田一族では唯一の勝ち組と言えるでしょう。そのためか南北朝の争乱では母方の従姉妹の子である足利尊氏に従い、観応の擾乱では足利直義に従って南朝方になって京都を何度か占領するなど武威を示しました。その後、再び幕府に帰順して侍所の長官を務める四職の一つになり11ヶ国を支配する六分一殿と呼ばれる大勢力となりました。しかし、そのせいで幕府に警戒され内訌を利用した将軍義満によって討伐されました(明徳の乱1391)。

義満によって衰退・分裂した山名一族の復興に力を注いだのが持豊の父である時熙です。時熙は応永の乱(1399)で奮闘するなど没落しかけていた山名氏を復活させようと努力しその意志は持豊に受け継がれました。持豊は将軍義教が『犬死』にした嘉吉の乱(1441)で赤松氏を討伐しその功で播磨守護職を手にしました。これにより山名氏は一族合わせて10ヶ国の守護職を手にしてかつての勢力を取り戻すことに成功しました。しかし、播磨領有の経緯から赤松氏の恨みを買うことになり、播磨領有が持豊死後の没落への端緒ともなったと言えるでしょう。出家したのは乱の翌年で当初は宗峯、後に宗全と改めました。宗全は戦に強かった一方で赤ら顔で巨漢だったともされ先述したように傲慢な性格だったことから『赤入道』と畏怖されました。かの一休さん毘沙門天の化身と評したそうです。

 

応仁の乱で対決したから細川勝元山名宗全は元から仲が悪かったと思われるかもしれませんが二人は最初は提携してました。畠山持国伊勢貞親そして将軍義政といった共通の敵に対しては手を組んでいたのです。勝元は宗全の養女を娶りさらに子供を養嗣子に迎えています。宗全が義政に討伐されかけた時は勝元が庇って隠居させる事で済ませました。しかし、両雄並び立たずで政治情勢が混沌していくなかでやがて二人の間に亀裂が生じていくのでした。

 

次回は、応仁の乱勃発の諸々の元凶、諸悪の根源である将軍足利義政を取り上げたいと思います。

ミッドウェイ海戦に勝利したらハワイを占領できたか?

すみません、応仁の乱の続きをやる予定だったんですが変更させていただきます。

yahoo!の知恵袋でタイトルのような質問があってベストアンサーに選ばれたのが、できるという回答でした。日本がミッドウェイで勝利できたら母艦航空戦力は我に優勢となりハワイでも米機動部隊に勝利するだろうからハワイを占領できるというものでした。これが投票で一位となったのだから賛同された人がそれなりにいたって事でしょう。

では実際はどうなんでしょう。結論を先に言ってしまうと...その可能性は限りなく低いと断言せざるを得ません。仮にミッドウェイが日本の完全試合に終わったとしても甚だ困難と言うしかありません。

ミッドウェイ海戦に勝利できたとすると彼我の母艦航空戦力は日本が優勢となります。ですが、我の損害ゼロで敵空母は全滅という事はあり得ません。そこまで圧倒的な戦力差ではありませんでした。ですが、ここでは日本の完封勝利だとしておきます。そうするとアメリカには空母が3隻しかないことになります。さらにアメリカはレンジャーを大西洋から動かそうとはしないだろうから戦力差は開きます。

そうなると、もしハワイ沖で日米の機動部隊が衝突すればアメリカ空母を全滅させられるでしょう。ただし、もしもの場合です。と言うのは、ここまで圧倒的な戦力差があればアメリカは正面から日本海軍とはぶつからないだろうからです。アメリカにとって最善の策は日本のハワイ侵攻部隊を水際で撃退することです。それはおそらく不可能だから次善の策であるハワイへの上陸は許容するが消耗戦に引きずり込んで撤退に追い込む作戦を取るはずです。そうなると遠隔地への侵攻を余儀なくされている日本は最終的には撤退を余儀なるされるでしょう。

まあ細かい話は抜きにして簡潔に申しますと、ハワイを攻略できる力が日本にあるなら史実のガダルカナル戦で勝利できたはずだと言うことです。日本には部隊を輸送する船舶が開戦時から不足していて南方作戦のような規模の作戦を実行することができなくなってたんです。ガダルカナルへの増援が逐次投入になったのも敵を甘く見たのではなく船がなかったからです。ハワイ作戦のような大規模上陸作戦は現実的に不可能です。書籍の中には他の作戦を中止させてハワイ作戦に船舶を集中させたらいいと書いてあるものがありますが、仮にそれができたとしても戦力を集中させているであろうハワイを攻略するのは長期戦を覚悟する必要があり、付近にゼロ戦を展開させられるような島嶼が無いハワイでの長期戦は日本にかなりの消耗を強いるはずであり、日本にはそれに耐えられる国力はありませんでした。真珠湾やミッドウェイでもしこうすれば戦局は変わっていたかもしれないと期待を抱かれるかもしれませんが、悲しいかなどんなに日本が勝ち進んだとしても国力の限界という現実が立ちふさがっていたのです。

アメリカと戦端を開いた時点で日本の敗北は確定していた...いや開戦を余儀なくされるまで追い込まれた...いやいや身も蓋もありませんが対米戦を想定した図上演習で最後までアメリカに勝つ秘策を見いだせなかった時点で既に8月15日へのタイムスケジュールは決まっていたと言えるでしょう。机上の空論と言いますがその机の上で参謀らが頭を捻ってもアメリカに勝つ空論すらでっち上げる事もできなかったのだから日本がアメリカに勝つなんて夢想にすぎなかったんですよ。

応仁の乱①

昔は戦国時代がいつから始まったかと言ったら応仁の乱とされていました。この乱で秩序が崩壊して乱世の時代が到来したと。かなり有名な乱で名前くらいなら知っている人も多いでしょうがその詳細を知っている人は少ないと思います。将軍家と管領家の内紛と実力者同士の権力争いが絡まって乱が勃発し途中で双方の大将が死んだけど乱は続いて結局10年以上という大乱となった、京都は焼け野原となり戦火は地方に拡大して戦国時代を招来した、一般的に知られているのはこの程度でしょうか。この乱がどのようにして終息したか知らない人は多いじゃないでしょうか。今回は応仁の乱について説明したいと思います。

かつては戦国時代の始まりというのが定説だった応仁の乱。小生が現役(学生時代)の頃は守護たちが京都で戦争している間に国元では守護代などが力をつけてきてやがては守護を倒していったと教えられていました。確かにその通りなのですが、守護たちが国を留守にしていたわずか10年ほどでその家来たちが主君を凌駕する力をつけていったのでしょうか。

実は足利幕府が真に安定していたと言えたのは3代目義満の晩年から次の義持の前半のわずか30年ほどでしかありませんでした。江戸時代と違って室町時代中央政府による地方の統制は行き届かない面が多く例えば応永の乱(1399)で屈服させた大内氏の生き残りである盛見と弘茂の家督争いで幕府に恭順した弘茂を支援したにも関わらず敗死させてしまい、その上に盛見を帰順させるために弘茂に与えていた長門と周防の他に豊前筑前守護職まで与えています。これによって没落仕掛けていた大内氏は盛り返して西国最大の大名にまで成長しました。幕府に刃向かった武家が大勢力に返り咲くなんて鎌倉幕府にも江戸幕府にも無かった事です。江戸時代の将軍と違って足利将軍が専制政治をしようとすると守護たちを抑圧するという手段しかありませんでした。義満は明徳の乱(1391)や応永の乱などで有力守護を撃破して将軍の武威を知らしめることで親政を強化しました。6代目の義教も同様にやろうとしたのですが過剰にしすぎたために殺害されました。以後、幼少の将軍が相次いだために将軍権力は低下しその後の歴代将軍の努力も虚しく将軍が実権を掌握することはありませんでした。

将軍権力が弱体なのと同様に守護の権力も絶対的ではありませんでした。原因は守護に在京義務が課せられていた事です。京都で将軍を支えるという職務のために国元での実務は守護代に一任していました。守護代の権限は守護とほとんど変わりませんから守護代の力が増していくのは自然の流れでしょう。将軍権力の弱体化がそれに拍車をかけます。守護の任免は将軍の専権事項だったのですが、それが地元の武士たちの同意を必要とするようになってきたのです。例えば赤松氏は加賀半国の守護に任命されましたが地元武士の抵抗にあって御国入りすら困難でした。当然統治も難航して結局は手放しました。

守護職世襲していた家も守護代の声望が守護を上回るようになりました。斯波氏の甲斐氏、赤松氏の浦上氏、土岐氏の斎藤氏などです。これらの守護代は守護が幼少だったり或いは能力的に問題あったりした場合に幕府から意見を求められたりもしました。応仁の乱が始まる前から守護代などの重臣層が主君を凌駕しつつあったのです。つまり応仁の乱があったから下剋上や争乱が頻発した乱世が到来したのではなくて、それ以前から徐々に乱世に向かいつつあったという事です。

次回は東西両軍の総大将、細川右京大夫と山名右衛門督について解説したいと思います。

※( )の数字は西暦です。