古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱③将軍義政

足利義政は将軍義教の五男として生まれました(1436)。幼名は三春。兄の義勝が病死した事で8歳で足利家の家督を継ぎました。1446年に後花園天皇命名で義成と名乗りました。将軍になったのは3年後で前将軍の死から6年が過ぎての就任でした。義政と名乗ったのは1453年からです。後土御門天皇の諱が成仁だったからだとされています。

ここまでで注意しておきたいのは義政は義勝のすぐ下の弟ではないことです。義勝と義政の間にいる者で有名なのは後に堀越公方となる政知ですが義政の兄なのに弟とされてしまいました。これは義政が義勝の同母弟だったことからの処置でした。似たような事例に鎌倉時代の執権・北条時宗とその兄の時輔があります。時輔は長兄でしたが庶子だったために時宗はおろかそのさらに弟の宗政よりも序列が下にされてしまいました。幕府にとって義勝の死は予想外でまだ子供でしたから当然、後継者となる子供はいません。それで幕臣らが話し合って母が同じである義政に白羽の矢が立ったのでした。さすがに籤引きで決める事には懲りたようです。

将軍となった義政は御教書という文書に署名・花押ができるようになりました。御教書とは将軍が出す命令書とでも思ってたらいいと思います。将軍の花押が据えられたものは御判御教書といって武士の財産である所領の給与や安堵に使われました。受け取る側にとったら自分の土地の権利を証明する効力がある大変ありがたい文書ですが義政は将軍になってから6年ほどは御教書を発給していません。管領が出す下知状が代わりの役目を果たしていました。これは義政がまだ14歳だったことも関係しているんでしょうが先々代の義教による将軍独裁の企てが多分に影響しているものと思われます。籤で選ばれた義教は始めこそ幕臣に遠慮していましたがやがて独裁を目論みます。評定や引付の復活や賦奉行の管領からの分離は管領の権限を抑圧するものでした。ただ権力を自身に集中させるのは父の義満もやっていたことですが義教は猜疑心が強すぎるあまりに必要以上に家臣に強くあたるようになり些細な事で処刑するようになりました。『万人恐怖』と恐れられた恐怖政治の記憶は管領以下の幕臣たちの脳裏にまだ鮮明に残っていたでしょう。必然的に彼らは将軍権力の抑制に動きます。それがこの時代の正しい政治のあり方と考えられていたのです。さらに理由として推測できるのは義政の能力不足です。義政はとても安心して親裁を任せられるような将軍ではありませんでした。

義政は政治に無関心な将軍というイメージがあるようですが実際は父の義教が目指していた将軍専制を彼も目論んでいました。しかし、やる気はあるのですが義政には自分が決めた事を貫徹できない意志の弱さと社会の状況を理解できないという欠点がありました。義政は自分の思い通りの政治をしたいという意思はありましたが、それは世のため人のためなどではありませんでした。飢饉で人々が次々と倒れていっているのに新邸を建築させるような人です。飢饉対策として資金援助をするんですが、その動機が枕元に立った父が生前の罪を悔い貧しき人々が餓死する事のないようにしてほしいと伝えたからだそうです。つまりそれがなかったら決して多くはなかった資金援助すらしなかったかもしれないのです。相国寺の施餓鬼供養では一貫文を援助してますが支援といったらそれだけで相国寺は二百貫文を自己負担したそうです。飢饉で人々が苦しんでいるのに義政は遊興に明け暮れていて後花園天皇漢詩で諌められてもいます。やる気はあるけど為政者としての資質に欠けている将軍でした。

義教の暗殺で将軍親政は後退し将軍権力は有力守護たちによって抑制されるようになりました。それは将軍が幼いという事もあったんですが成長してくると自分で政治をしてみたいという欲求にかられるものです。義政とて例外ではなく将軍になったからには親裁したいと思うのは当然でしょう。しかし、彼は厳しい現実を思い知ります。

1450年すなわち将軍就任の翌年、尾張守護斯波千代徳丸の家臣織田郷広今参局(義政の乳母)に取り入って守護代復帰を企む事件が発生しました。というのも郷広は在国守護だったのですが寺社本所領を押領したために主君の千代徳丸だけでなく織田一族からも絶交されて逃亡してしまいました。復帰を目論んでいた郷広は今参局に働きかけて守護代復帰を画策したのでした。義政政権下で裏で政治を操っていた今参局に取り入る事で郷広は義政から在京守護代に補任されます。しかし、管領畠山持国がこれに異を唱えました。当初は賛成していた持国ですが甲斐氏ら織田家被官人衆の反対に遭うと職を賭してまで郷広の守護代復帰に反対するようになりました。

それに対し、義政は持国室を『御母』とし擬制的な母としました。これにより持国の嫡男義就は将軍の義兄弟のようなものとなり、それは家督問題に直面していた持国・義就父子への援護射撃となるものでした。義政は家督問題で家臣らの反発に遭っていた持国を支援する事で尾張守護代問題の自分への賛意を得ようとしたのです。持国は今参局と同調して郷広の守護代復帰に反対する甲斐氏らに圧力をかけます。将軍の上意に背くとしたのです。郷広の目論見は成就するかに思われました。

ところが予想外の事が起きます。義政のお母さんが反対したのです。一連の騒動が将軍によろしくないと言うのです。息子が聞く耳持たないと見たお母さんは嵯峨に隠居してしまいました。驚いたのは持国らの諸大名です。彼らは義政に懇願して尾張守護代問題には今後一切介入しない事を約束させました。一年以上続いた騒動はこれで決着がつきました。ここで注目したいのは騒動が正規の幕閣でない女官の口出しで始まった事と将軍が己が意を通すのに管領と取引しなければならなかった事です。そして、自身の意向よりも母の意向が優先される事を目の当たりにした義政は将軍権力の無力さを痛感します。以後、義政は将軍権力の確立に向けて奮励努力しますが、そこに細川勝元山名宗全という障害が立ち塞がります。この二人は縁戚関係にあって協力して将軍権力の絶対化を阻止しようとします。その状態が長く続けばよかったんでしょうが...。

次回は大乱の原因となった将軍家と管領家家督争いを見ていきたいと思います。

 

※追記として織田郷広今参局のその後について。郷広は斯波氏に許してもらおうとしますが弟の久広に殺害されます。この久広が郷広の復帰のために更迭された尾張在京守護代です。つまり郷広は弟を犠牲にして復帰を企んでいたのです。甲斐氏らの同僚が郷広の復帰に強硬に反対したのも頷けます。今参局は今回の件で義政のお母さんに睨まれ政治には今後一切関与しないと約束させられます。そして、義政の奥さんが流産すると呪詛したと嫌疑をかけられ完全に失脚して失意のあまり自害して果てました。