古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑤斯波氏の内紛

斯波氏は足利尾張守家が前身で幕府の創業の功臣である足利高経の四男斯波義将が執事に任じられ高経が後見するという形で細川氏と斯波氏が管領に就任する体制ができました。後で畠山氏が加わって三管領となります。

執事の義将をなぜ高経が後見するかと言うと義将が13歳だったからです。13歳で執事?と思われるでしょうがこれは父の高経が執事になるのを頑なに拒んだ結果でした。執事は足利家の家政機関の長で足利家の家来が務める職です。鎌倉時代は宗家とは別に御家人に列して形式上は宗家と同格という誇りから高経は執事になるのを拒否したのです。高経としては一門として宗家を支えても家来として仕えるつもりはないという事でしょう。

武家の一門というのは家来ではありません。松平家忠は松平一門として徳川家康をあくまで一族の代表とぐらいしか思ってなくて日記に織田信長を上様と敬称しているのに対し家康は呼び捨てにしています。これは徳川家の人間でさえ信長と家康の関係をもはや主従関係に近いと認識していた事を意味しています。家忠が家康を主君と心の中でも認めるようになったのは家康が織田家と対等の関係になる小牧・長久手頃です。

また江戸幕府でも親藩大名は幕府の役職には就きませんでした。松平定信が老中になったのは譜代の久松松平家に養子に行ったからです。さらに言うと徳川斉昭を無断登城の咎で処分する時に井伊直弼は将軍の名を使う必要がありました。大老ですら斉昭を処分するのに自分の名ではできなかったのです。

話が逸れてしまいましたが、高経は大内氏や山名氏を帰順させて幕府を安定させるのに貢献しました。先述したように創業の功臣と言える人ですが、一方で幕府の要職を一門で独占しようとするなど専横や政策の性急さに反発する大名も多く貞治の変で失脚しました。高経は幕府軍に城を包囲される中を失意のうちに没しました。

高経が没すると義将は赦免されて康暦の政変で細川頼之を失脚させて管領に復帰します。その前に武勇の誉れ高い桃井兄弟を討ち破り越中を平定する軍功を挙げています。その越中は畠山氏の越前と交換で手放しましたが、一時は一門で越前・加賀・信濃遠江尾張守護職を手にして絶対権力者となった将軍義満でさえも一目置かざるを得ない存在となった義将は斯波氏の全盛期を築き上げたのです。

しかし、義将が没すると斯波氏は徐々に斜陽していきます。先述のように鎌倉時代は宗家と同格だった(始祖の尾張守家氏は元々足利泰氏の嫡男だったが得宗と名越の抗争の煽りをくらって廃嫡された)尾張足利家の流れをくむ斯波氏(記録上では斯波氏と称したのは義将から)は同じ足利一族でも家臣同然だった細川氏や仁木氏などとは家柄が比較にならず三管領でも筆頭の家格を誇っていました。その家柄の良さゆえに他氏からは敵視されやすく実際に高経は失脚しています。義将没後の斯波氏は義重はまだしも義惇は将軍義教と対立、義郷は将軍に気に入られるものの家督相続後3年で事故死、義健は2歳で家督相続して18歳で死去と全く振るわなくなりました。また幕府内の立場だけでなく領国経営でも仕事柄京都に常駐する悲しさどうしても部下任せになってしまって統制が緩んでしまいました。斯波氏は細川氏や畠山氏と違って領国が京都から離れているうえに残った越前・遠江尾張も離れ離れの位置にあるので一元的な管理もできませんでした。そのため斯波氏は戦国時代になると越前と遠江の確保に失敗して尾張だけを統治するようになりました。その尾張さえも実権を無くして最終的に織田信長によって国を追われることになります。

義健には子がいなかったので分家の義敏が斯波家の家督と越尾遠の守護職を継承しました。しかし、義敏は重臣の甲斐美濃守と対立してしまいます。義敏のお父さんと甲斐常治は幼少の義健を支えていましたが対立しており当然、義敏も常治には良い感情を持っていませんでした。斯波家は義敏派と甲斐派に分かれてしまいました。1456年、甲斐氏の専横を将軍義政に訴えた義敏ですが将軍は甲斐氏に肩入れした裁定を下します。実は甲斐氏は陪臣ではありましたが、将軍とも太いパイプを持っていてしかも将軍側近の伊勢貞親とも繋がりがあったのです。先述したように斯波家当主は在京が常であり領国の実権は守護代に奪われつつありました。将軍としても一方的に片方に肩入れするわけにもいかずどうにか間を取り持って仲直りさせるしかありませんでした。といっても先述したような甲斐常治との関係から常治をひいきする事が多くそれが義敏の反感を買ってしまいます。

その頃、関東では鎌倉公方成氏と関東管領上杉氏との間で享徳の乱と呼ばれる戦争が始まっていました。義政は成氏の討伐を指令し成氏は今川範忠の攻撃で鎌倉を追われて以後は古河を拠点とします。成氏の後任に義政は異母兄の香厳院主清久を還俗させて渋川義鏡を補佐役につけて派遣しました。後の堀越公方です。ここに鎌倉公方古河公方堀越公方に分裂することになりました。

義政は義敏と常治に関東への出陣を命じます。しかし、双方の対立はもはや修復不可能となっていてとても関東に遠征できる状態ではありませんでした。義政もそれは承知だったでしょうが、義敏は遠江守護なので関東への軍隊派遣に適任で奥州探題(斯波氏の分家)とも仲が良いので奥州の軍事力もあてにできました。義政としても常治にばかり肩入れするわけにもいきませんでした。どうにか仲を取り持ったものの和解は形式上に過ぎず常治が病床にあると知った義敏は越前に軍を派遣してしまいます。長禄合戦の始まりです。とうとう内戦にまでなってしまいましたが義政は常治を越前守護代と改めて認定し若狭・能登・近江らの国人に常治への援軍を命じます。こうなると義敏は越前守護を罷免されたも同然で激しく抵抗するも敗北して大内氏を頼って西国に落ちのびました。後任の守護は義敏の子松王丸が任命されましたが傀儡であるのは言うまでもないでしょう。

斯波氏が内紛で混乱している間に堀越公方古河公方に大敗して関東情勢は緊迫していました。堀越公方の補佐には渋川義鏡の他に義敏もあたるはずでしたが、義敏の追放で義鏡一人で堀越公方を支えなければならなくなりました。といっても義鏡は守護ではないので自前の軍事力がありません。しかも今川範将が遠江に侵攻する事件も発生しててんてこ舞いの状態でした。さらに義敏を追放した事で奥州や関東の有力な武将が幕府の古河公方追討の命令に応じなくなりました。

そこで義政は松王丸を出家させて義鏡の子義廉に斯波家を継がせました。そうする事で義鏡は尾張遠江の軍事力をあてにできるからです。ところがその翌年に義鏡が関東管領との間に確執を起こして失脚してしまいました。古河公方の追討には奥州探題の力が欲しいところですが義敏と違って義廉には大崎氏との間に太いパイプがありませんでした。そうなると義政としては義廉を斯波家当主にしておくメリットはありません。ちょうど甲斐常治も亡くなっていた事もあり義政は義敏父子を赦免します。その裏には細川勝元の後押しがあったようです。

しかし、義敏が復帰する事は言うまでもなく義廉の立場を決定的に悪くします。当然、義廉は保身に動きます。畠山義就山名宗全と連携する事です。義敏も畠山政長細川勝元と提携します。それに大内氏が山名派に赤松氏が細川氏に組して両派は対立を深めていく事になります。