古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑥文正の政変

将軍義政には深刻な悩みがありました。結婚して10年が経つのに未だに男子に恵まれなかったのです。そこで義政は一計を案じます。弟で出家の義尋を還俗させて後継者にする事です。当初は固辞していたという義視ですが、再三の要請についに承諾しました。勝手な想像ですが同じく僧侶の身から将軍となった父の無残な最期が影響していたかもしれません。しかし、兄の頼みを断りきれずに還俗を決意したわけです。こういうのって大抵、実子ができたりして揉め事になるんですよね。案の定、次の年に義政に男子ができました。

義政は義視に男子が生まれてもお前を将軍にすると約束したそうですが、さすがに将軍の実子というのは無視できません。そもそも義政は早急に次期将軍の手配を済ませる必要があったのか。結婚して10年が経過したといっても奥さんの日野富子はまだ25歳でこれまで男子こそ授かりませんでしたが女子を二人産んでおり子供ができないわけではありません。それに男子ができたという事はまだ夫婦生活は破綻していなかったという事です。もう少し待っても良かったのではないでしょうか。

一説には義視は義尚が成長するまでの中継ぎとする事で解決を図ったそうなんですが義視にも実子ができてしまうと義視にだって自分の子に将軍職を継がせたいと思う気持ちはあるでしょう。当面は義視が次期将軍の最有力候補になったようですがそれを面白く思わない人がいました。将軍の側近伊勢貞親です。

伊勢氏は貞継以降政所執事をほぼ世襲してきた家柄で幕府の財政を支配していました。さらに侍所の業務の一部を吸収して禅宗の統制も図るなど権限を強化してきました。貞親は将軍義政の養育係で父親代わりみたいな存在で将軍に影響力を及ぼせる人でした。実際に越前守護と守護代の対立では将軍は貞親の縁戚にあたる守護代を贔屓にしています。さらに武家故実に精通しているなど財務・実務だけでなく礼儀作法にも長じたりとなかなか有能な人物でした。礼儀作法ってどうでもいいだろと思われるかもしれませんが室町時代には結構大事だったんですよ。

力で諸侯を抑えつけていた江戸幕府と違って足利幕府は大名を処分するのに軍事力を動員する事が幾度かありました。これだけ見ると足利幕府が暴力的に思えるでしょう。しかし、これは江戸時代の将軍や大名が室町時代の将軍や大名よりも平和主義者だった事を意味していません。江戸時代の大名が逆らおうという気力すら失せるくらい幕府の軍事力が圧倒的だっただけです。しかし、室町時代の幕府には大名を命令一つで取り潰しできる軍事力がありませんでした。そこで礼儀作法で上下関係を躾ける事にしたわけです。日本の面倒な礼儀作法は室町時代にできたって聞いた事があります。礼儀作法の他にも身分によって幕府からの待遇が変わったりします。もっとも戦国時代になると家柄ではなくて実力でもって幕府からさらに上の待遇が与えられたりしてしまうわけですが。

その伊勢貞親ですが彼は義政実子の義尚の乳父でもありました。義視には細川勝元がついている上にすでに成人して貞親とは接点がないので義視が将軍になっても貞親には利がないばかりか下手すれば干されるかもしれません。いや細川勝元は間違いなく貞親を排除しにかかるでしょう。貞親が推し進めていた政策例えば不知行地還付政策(いろんな理由で不知行となった寺社領を元の寺社に還付する。いろんな理由とは言ってみれば守護やその家来による横領)などは守護にとっては抑圧でした。勝元としては消し去りたい人物だったはずです。貞親もそれは承知でしょうから保身のためには義尚が将軍になるしかありません。たとえ中継ぎであっても義視を将軍にするわけにはいきませんでした。

前回、斯波氏の内紛について取り上げましたが斯波義敏追放後の斯波家の家督となった義廉は実父の失脚と奥州探題との交渉の失敗によって急速に立場を悪くしていました。そこで義政と貞親は義敏を復帰させる事にしました。義敏は奥州探題と昵懇で激しく対立していた守護代の甲斐常治も亡くなっているので復帰に障害はありませんでした。無論、義廉はそれに反発します。対抗策として畠山義就と提携して母が山名氏の出という縁をたどって山名宗全に接近して宗全の娘を娶ります(1466)。この山名派の形成を貞親は妨害しようと斯波氏と山名氏の婚姻解消を図ります。そして、義政が越尾遠三ヶ国の守護に義敏を任じた事で正式に義敏の復権が決まりました。対抗策も虚しく義廉は失脚してしまいました。しかし、直後に事態は急展開を迎えます。

1466年9月、義視は兄の義政が自分を追討しようとしていると聞いて仰天します。義視が将軍に陰謀を企んでいるという嫌疑からでしたが義視には身に覚えがありません。義視に泣きつかれた勝元は義政に弁明をします。結果、義視の陰謀は貞親と蔭涼軒主季瓊真蘂の讒言だと判明しました。義政から切腹を命じられた貞親は近江へ逃亡、季瓊真蘂や赤松政則斯波義敏も京都を脱出します。義敏は先月に復帰したばかりでした。この文正の政変で義政は有能な片腕を失い親政の野望は頓挫しました。そして、幕府の実務能力の低下は後の細川政元による京兆専制の遠因となったのでした。

伊勢貞親の失脚で将軍と有力守護の権力抗争はひとまずは守護側の勝利に終わりました。しかし、山名派の形成は細川勝元との対立を生みました。畠山義就斯波義廉も勝元と対立しており、宗全も斯波氏の家督交代に管領だった勝元と畠山政長の関与を疑っていました。勝元と宗全は元々縁戚関係で畠山持国伊勢貞親という共通の敵がいたこともあって協力関係にありました。しかし、その敵がいなくなった上に勝元に実子ができて養子の豊久を出家させた事で宗全との縁が薄くなってました。そして、両派の対立は収まる事なくついに日本の中世最大の内乱へと向かっていくのでした。