古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑨相国寺の戦い

大内周防介政弘は1446年に大内教弘の嫡男として生まれました。幼名は亀童丸。19歳で家督を継ぎます。大内氏細川氏日明貿易の主導権を巡って対立しており政弘が西軍として参戦したのも貿易の独占が目的でした。当時の貿易船は幕府と細川氏大内氏の3隻で1隻の利益は数十億円にのぼると推定されています。当時は貨幣経済が急速に浸透しつつあった時代でその貨幣も大陸からの輸入だったので貿易の独占は貨幣経済を牛耳る事を意味しました。また足軽も多くは金銭で雇われるため軍事面でも貨幣の力は侮れませんでした。幕府も土地収入が低いので関所から徴収したり特権や保護を与える代わりに税金を取るなど金銭による税収で財政を賄っています。将軍義政妻の日野富子は蓄積した銭を大名に貸し付けて利子で儲けていました。敵対した大名にも貸していたというのだから驚きです。政弘は守護を務めている周防・長門豊前筑前の他に安芸・石見・筑後・伊予にも動員をかけ2000艘もの大船団でもって瀬戸内海を制圧して摂津兵庫に上陸しました。大内軍接近の報に東軍は大内軍が来る前に決着をつけようと斯波義廉邸を猛攻します。しかし、西軍の抵抗は激しく8月になって大内軍が到着すると東軍は兵を引き上げました。その時に細川勝元天皇上皇を花の御所に移送しています。両軍はしばし睨み合いました。

1467年9月13日、大内軍の来援で士気が向上した西軍は東軍本陣である相国寺を西と南から攻撃を開始しました。これに対し東軍も兵を相国寺に集中して烏丸高倉の御所から三条殿の間に迎撃ラインを構築して待ち構えます。西軍の猛攻に東軍は必死の抵抗を見せ突破を許しません。10月3日、膠着状態に苛立った山名宗全は内通した相国寺の僧に放火を指示します。黒煙があがるのを合図に西軍は御所と三条殿を一気に占拠して相国寺に迫ります。相国寺東門の守備隊は諸堂が燃えているのを見て引いてしまうも安富元綱らが500ばかりの兵で大内軍と土岐軍相手に奮戦し結果全滅するも代わって赤松軍が防戦に立ちました。未明から夕刻までの戦闘で東軍は甚大な損害を被るも退かず疲弊した西軍は兵を引き上げさせました。東今出川の堀が戦死者で埋もれてしまったというからかなりの激戦だったようですが、中には遺体の山に身を潜めていた者も少なからずいて戦闘が終わると底からゾロゾロと這い出てきたという伝承があります。本陣の相国寺が炎上焼失した事で東軍は勝元邸や花の御所への移動を余儀なくされ相国寺の焼け跡は一色義直六角高頼らに占拠されてしまいました。周囲は西軍によって隙間なく包囲され勝元は将軍を他所へ避難させようとします。しかし、将軍はこれを拒否しました。将軍はすぐ側の相国寺が炎上して火の粉が降って来るのを見ても平然と杯を傾けていたといいます。なかなかの度量です。さて風前の灯火なった東軍の窮地を救ったのは畠山政長でした。政長は普光院跡から相国寺跡の西軍を攻撃します。政長の姿を確認した一色・六角軍は政長軍めがけて突進しますが、それは政長が仕掛けた罠でした。飛び出してきた西軍を東軍の伏兵が横槍を突いて崩れたところを政長軍が攻撃して西軍を崩しました。西軍が混乱していると見た東軍は勢いを増して相国寺の陣地を奪回しました。この3日から4日にかけての相国寺をめぐる戦いが応仁の乱で最大の激戦とされ、戦力が疲弊した両軍が兵を休息させている間に陣地を要害化したために以後は大規模な衝突は起こりませんでした。その代わりに足軽による局地戦が主となってその度に放火や略奪が行われたため延焼・荒廃した地域が広がり人々が数百年かけて築いてきた京の都はつい数ヶ月前までの繁栄が幻だったかと思えるくらい見る影もなく荒れ果ててしまいました。しかし、大乱はまだ1年目でしかなかったのです。