古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑩西軍の幕府

大内政弘の増援で意気が上がった西軍ですが将軍を東軍に押さえられているという不利は否めず将軍の敵となってしまったというプレッシャーは諸将にとって大きなストレスとなっていました。しかし、西軍諸将はそう簡単に引き下がるわけにはいきませんでした。乱の原因が守護大名家の家督争いである以上負けるわけにはいかなかったのです。西軍が東軍に対して不利なのは大義名分です。前哨戦となった御霊合戦で西軍が勝利したのは将軍を自陣営に取り込む事で畠山政長を孤立させる事に成功したからです。しかし、将軍は東軍が固く守っていて奪取はできそうにありません。そこで西軍は自分達の将軍を擁立する事にしました。誰を擁立するか、言うまでもなく足利義視しかいません。
義視は僧籍にあったのを兄の義政に請われて還俗して次期将軍候補となった人です。当時の評判は「毎時、義理正しく(物事の正しい道筋という意味)仰せらる」と好評で乱が勃発すると鎧始を行って参陣し飯尾為数という奉行人が西軍についたと知ると速攻で成敗するという迅速な対応ぶりを見せています。このように当初は兄の義政とともに東軍に身を置いていた義視ですが、かつて自分を陥れようとした伊勢貞親が兄に呼び戻されたと知ると少なからず動揺したようです。義政としては有能な側近を欲しただけという理由だったでしょうが義視は兄に不信感を抱くようになりました。それだけでなく細川勝元からも出家を勧められるという不愉快極まりない扱いを受けています。「バカにしとんのか?」と言ったかもしれません。1468年11月には義視を義政が誅殺するという噂が流れたり日野富子と兄の勝光が義視を中傷したりもして東軍に義視の居場所は無くなってしまいました。かと言って追い出される事もありません。西軍に利用されるのを防止するためでした。しかし、兄と違って意識高い系(義政もある意味意識が高いと言えん事もないが)の義視がそんな不本意な扱いに我慢できるわけがありません。西軍の御輿に乗っかる事に決めた義視は23日に斯波義廉の屋形に入りました。山名宗全以下西軍諸将が諸手を挙げて歓迎したのは言うまでもありません。
しかしながら義視は将軍宣下を受けたわけじゃないので正式な将軍にはなれません。天皇も東軍の保護下にあるのでは将軍になるのは無理です。それでも宗全らは翌年正月に年頭祝いとして剣馬を義視に献上しています。これは西軍諸将が義視を将軍と見なしているからでした。たとえ将軍に就任してなくても足利家の血筋であれば問題ないという認識でした。6代義教の急死後に義勝が後継になった時も足利家の家督にはすぐに就きましたが将軍になるまでには時間がかかっていました。義勝死後に義政が将軍になるまでも同様です。将軍=足利家という理解が浸透していた当時の人達にとっては将軍になっててもそうでなくても足利家家督は同時に征夷大将軍だったのです。これは『形式』よりも『実体』が重視されつつあったからですが、義視は将軍としての実績を重ねる事で事実上の将軍となろうとしたのです。
将軍としての実績それは将軍としての権限を行使する事です。義視は1469年4月から御内書の発給をしていますが御内書とは将軍の私的な命令を伝える文書で将軍による署名捺印がなされるため公的な命令書としての効果がありました。軍勢の催促や恩賞の給付に用いられました。義視はこの御内書でもって四国と九州の大名に軍勢を率いて上洛するよう促したり3年後の話ですが東軍の山名是豊麾下だった毛利元就の※お祖父さんが西軍に鞍替えしたのを喜んで戦功を挙げるように伝えたりしています。また所領の給付にしても備後小早川家の本家である沼田家の煕平が死ぬと煕平が東軍に属していたのを理由に所領を没収して分家の弘景に与えるとの御内書を発給しています。実は煕平が家督を継承した頃に当時の将軍義教から弘景の父盛景に家督を譲るよう裁定を下していた事がありました。直後に義教が横死したために裁定は有耶無耶となり煕平が家督を継いだのですが義視は父の裁定を引き継ぐ事で自分が足利家の正統であるとアピールしようとしたのです。この他に大内政弘左京大夫に推挙するなど西軍諸将の官途授与の仲介を行うなど将軍の実績作りに邁進しています。とはいえ正規の将軍ではない義視の推挙では朝廷も恐らくは取り上げなかったと思いますが西軍内では政弘は左京大夫なのでした。

このように事実上の将軍として振舞ってきた義視ですが、幕府機能の充実も図っています。管領には斯波義廉が、政所執事には伊勢貞藤が任じられました。しかし、正規の奉行人のほとんどが東軍に属している状況では兄義政の幕府に対抗するには人材が不足していました。それでも西軍にとって自分達の将軍がいる事は心強いものがありました。とはいえまだ足りないものがあったのです。そう天皇です。実は義視が出奔してすぐに御花園上皇より義視追討の院宣が下されていました。たとえ将軍を擁立できたとしても天皇が敵側にいれば賊軍認定されてしまいます。西軍は自分達の幕府だけでなく自分達の朝廷をも作ろうとしたのです。西軍には武士だけでなく公家も10名ほど参加したようです。1469年4月に応仁から文明へ改元されましたが西軍は別の元号を使用しているとの噂が流れました。永享の乱のように改元に従わない事は朝廷への挑戦と見做されます。西軍が別の元号を使用していたのが事実ならこの時点で彼らは自分達の天皇を擁立するつもりだったのでしょう。

では誰を擁立するか。後土御門天皇には兄弟がいません。それでも天皇に擁立できる人物に成り得る者はいました。南朝皇胤です。南北朝合一後も交代で天皇に即位するという和議を反故にした朝廷と幕府に反発した南朝勢力が後南朝として抵抗運動を開始していました。一時は神器を奪ったりもしてこの時点でもまだ勢力が残存していました。その南朝皇胤ですが、南朝最後の後亀山天皇の孫小倉宮聖承の末裔で18歳の僧侶でした。しかし、それより年下だったとも伝えられており実体は不明です。そのため擁立に反対する者が現れました。最初に反対したのは畠山義就です。彼の場合は後南朝の勢力が彼の領国である紀伊と河内に少なからず存在して『南主御領』として接収される可能性があったからでした。それからも美濃守護代斎藤妙椿も皇胤の上洛に反対するなど西軍内に擁立反対派が増えていきました。ついには義視までもが皇胤に会おうとすらせず擁立反対に回ってしまいました。しかし1472年1月の西軍の記録に南主とある事から結局は擁立したようです。こうして苦心惨憺して擁立しようとしたわけですが以降の史料に皇胤は登場しなくなります。年齢ですら確定されていない素性が確かでない人物を天皇に擁立するリスクに義視以下西軍の面々が尻込みしてしまったのでしょう。正規の天皇と別の天皇を擁立するだけでも賊軍認定確定なのにその人物が皇統とは関係のない人物だったと後でわかれば西軍は完全に支持を失ってしまいます。こうして天皇の擁立に失敗した西軍は東軍に対して大義名分で不利となってしまったのでした。

※治部少輔豊元。