古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑪天皇の奮戦

今年は近代以降初めてとなる上皇が誕生した年ですが、ある弁護士の先生が天皇平安時代が終わってからは存在感が無かったみたいな発言をされてました。確かに鎌倉時代から江戸時代にかけて現役の天皇が歴史を賑やかせた事例って後醍醐天皇だけです。念のために承久の乱上皇が主犯です。あとは孝明天皇がまだ知名度がある程度ですかね。教科書には歴代天皇系図は記載されていても個々の天皇が何をしてたかなんていちいち書かれてません。小生だって応仁の乱天皇が何をしてたかなんて知りませんでした。でもだからって当時の人たちにとっても天皇の存在感なんて無かったというのは早計でしょう。いまの我々と同じように当時の人たちにとっても天皇はリアルに存在していたのです。だいたい本当に天皇に存在感すら無かったら天皇に任命されて征夷大将軍となって幕府を開くというシステムなんて成立するわけがありません。では、未曾有の大乱となってしまった15世紀後半の日本で天皇は何をしていたのでしょう。今回は室町時代天皇を取り上げたいと思います。
1392年に南北合一が成立して二人の天皇が何十年も存在していた異常事態は終息しました。しかし、前回でも触れましたが交互に天皇を出し合うという和議での約束を北朝側が一方的に破った事に南朝側が反発して後南朝として抵抗活動を開始しました。その南朝系の皇統の末裔を西軍が擁立しようとしましたが結局は断念しました。なぜ北朝後小松天皇は約束を破ったのでしょうか。想像するに勝者である自分達がなぜ譲歩しなければならないのかという思いではないでしょうか。そもそも鎌倉時代に交代で天皇を出そうねという約束ができたのにそれを一方的に破ったのは南朝後醍醐天皇です。それをまた交代制に戻そうなんて図々しいにも程があります。それに南朝は最後まで忠義を貫いてきた楠木一族の拠点だった千早城が陥落して河内国を失陥するなど軍事面でも追い詰められていました。対等な立場で和睦を結べる相手ではない。後小松天皇はそう考えたかもしれません。これに将軍義持が賛同して後小松天皇は躬仁(即位後に実仁と改名)親王に譲位しました。後小松天皇が和議を反故にしたのも和議を守ってたら院政ができないというのもあるでしょう。しかし、即位した称光天皇は病弱で当時まだ14歳で子供がいません。継承問題が起こったわけですが紆余曲折の末に伏見宮貞成の子が後花園天皇として称光天皇の死後に即位しました。この過程にはかなりのドタバタ劇があったんですが今回は割愛します。
後花園天皇は政治への意欲が旺盛な人でした。勿論、政治を実際に行うのは幕府です。それでも影響力を行使する事はできます。その手段の一つが綸旨の発給です。代表的なのは1438年の永享の乱鎌倉公方を賊軍認定して治罰綸旨を下しています。他にも嘉吉の乱の赤松氏討伐にも綸旨を出しています。いずれも幕府の要請によるものですが綸旨の発給には天皇の強い意志がありました。赤松氏討伐の件では綸旨の草案では単に赤松氏は悪い奴らだから征伐しろという内容の事務的な素っ気ない文面なのに対し後花園天皇が自ら添削した内容は赤松氏は天皇の命令を播磨で遮ってると討伐の理由を具体的に明示しています。また討伐に参加する大名諸将に天皇に対しての奉公を全うするよう求めています。さらに赤松氏に与同する者も同じく討伐の対象にすると宣言しているのです。ただ単に幕府に要請されたから出しましたというようなものでなく政治の混乱を一刻も早く鎮めたいという天皇の強い意志が込められているのがわかるかと思います。
綸旨の発給は天皇の権威を高める効果がありました。そもそも足利将軍家にとって身内や家来を征伐する戦争でなぜ天皇の命令を賜る必要があったのか。嘉吉の乱を例にすると当時の管領細川持之が幕府の命令だけでは諸大名が従ってくれるかわからないと泣きついてきたからでした。しかし、本来武家同士の私戦では綸旨は出ない事になっています。それを管領の強い要請によって出される事になったのですが、ただ単に発給したのでは幕府から要請があったから出したという事務的な手続きに終わってしまいます。後花園天皇が添削した事で赤松氏討伐を天皇による命令だという天皇を主体とした戦争に仕立て上げる事に成功したのです。
このように後花園天皇足利義満皇位簒奪未遂以来失墜していた天皇の権威を回復させる事に成功しましたが真意は天下の泰平でした。足利義政元服後の初名が義成でしたが命名したのは後花園天皇です。成には『戈』という漢字が使われています。天皇は若き将軍に武威でもって天下を治めてほしいと願い期待したのです。しかし、周知のように義政はあまり理想的な将軍ではありませんでした。長禄・寛正の飢饉で庶民が苦しんでいるのに花の御所で遊び呆けている始末です。そんな義政に天皇漢詩でもって諌めました。義政はそれを読んで自らの行為を慎んだそうです。現在の我々にとっても昔の人達にとっても天皇は近い存在ではなかったにしても決して存在感が皆無というような事は決してありませんでした。ろくに調べもせずに鎌倉時代以降の天皇は存在感がなかったなどと弁護士ともあろう方が言えたものです。
しかし、後花園天皇にも自分の力には限界がある事を思い知らされる大事件が起こります。言うまでもなく応仁の乱の勃発です。すでに譲位して上皇になっていたんですが東軍総帥の細川勝元に停戦を要請します。しかし、それまでの幕府による賊徒討伐ではなく幕府を二分しての大戦とあっては事態は深刻で勝元もいかに上皇の要請であっても引き下がる事はできませんでした。自身の力の限界を悟らされた上皇は出家します。上皇は前に畠山政長討伐の綸旨を発給してましたがそれが今回の大乱を招いたと自責の念にかられての行動でした。無責任な将軍義政に対して為政者の不徳の責任の取り方として世間からは賞賛を浴びたそうです。法皇はその後も大乱の終結に尽力しますがいかなる努力も実る事はありませんでした。この時の法皇の心情を吐露したとされる書状には「無益千万」と記されています。大乱の終結を見届ける事なく法皇は1470年12月27日に避難していた室町殿で世を去りました。葬儀には戦乱中の外出に勝元が反対したのを押し切って義政も参列しました。