古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑫天皇の苦悩

京都という市街地での戦闘を少しでも有利にするため両軍がこぞって家々に火を放った事で都は灰燼に帰しました。公家は戦火を避けて地方へ疎開しました。自領に向かう者もいれば大内氏などの大大名の庇護を受ける者もいました。しかし、天皇はそうはいきません。たとえ近場の移動でも行幸と称される仰々しさです。さらに厄介なのが何でもかんでも先例に束縛されている事です。上御霊社の戦いがあった時、後花園上皇後土御門天皇は室町殿へ緊急避難するんですがその際に輿ではなく乗り物を使ったんです。それが異例中の異例という事で問題になったみたいなんですが嘉吉の乱に例がある事が確認されました。避難する際にもいちいち先例を気にしなくてはならない有様だったのです。その避難先も次々と炎上焼失してその度に天皇は“行幸”を余儀なくされました。そう何度も居所を転々とすれば生活に不便が生じたはずでかなりのストレスだったと思います。しかし、後土御門天皇にとってストレスの原因はそれだけではありませんでした。

天皇にとって何よりのストレスは朝儀つまり朝廷の儀式ができない事でした。まず1468年元日の四方拝が中止と成りました。これは寅の刻に天皇が束帯を着し清涼殿の東庭へ出御し属星、天地四方、父母の山稜を拝して天災を祓い五穀豊穣、宝祚長久、天下泰平を祈願するというものです。なんで中止になったかと言うと禁裏に土岐成頼、仙洞御所に畠山義就が布陣していて近寄れる状況ではなかったからです。他にも節会も中止となりました。理由は兵革つまり戦乱ですが宴会を開こうにも公家は疎開してるし費用面でも朝廷の財政が逼迫してるのでどうにもならなかったようです。幕府も似たような状況で毎年恒例の椀飯が1471年に中止になりました。

その後1475年に四方拝が復活しますが節会はなかなか再開できずようやく1490年に復活できました。実に20年以上もの年月を経ての再開でした。その間、天皇は公家たちに儀式が途絶えないように練習を命じています。それでも長いブランクを埋める事はできず多少の不手際があったようです。しかし公家からしたら朝儀どころではなかったでしょう。戦乱を避けて地方の自領に疎開する者もいれば武家を頼って下る者もいました。地方に行ったのは戦火を避けるためでもありましたが戦乱の影響で地方からの収入が途絶えて窮乏したからでもありました。そこで現地に行って直接荘園を管理しようとしましたが戦闘に巻き込まれて命を落とす者もいました。一方で土佐一条氏のように地元に根付いて戦国大名化した例もあります。

後土御門天皇がここまで朝儀の復活に情熱を注いだのは朝儀を滞りなく行う事で天皇の存在を証明するためでした。しかし、戦乱のために思うように行かず公家たちは地方に逃げてしまって官職に就けるためにいちいち呼び寄せなければならない有様でした。何より財政の窮乏が天皇を精神的に追い詰めた要因でしょう。疲労困憊の天皇は何度も譲位を口にしますが周囲や幕府の反対で実現しませんでした。譲位をしようにもお金がありません。後土御門天皇は1500年に崩御しますが葬儀の費用が工面できず40日も御所に置かれたままだったそうです。死してもなお安らかにはさせてもらえなかったようです。朝廷の窮乏は次代の後柏原天皇も悩ませ即位の礼を挙げるのに20年以上も待たなければなりませんでした。次の後奈良天皇即位式を挙げられたのは践祚の10年後です。次の正親町天皇は2年後ですから徐々に財政状況は改善されていったようでその後は織田信長の援助でようやくにして朝廷は窮乏から脱したのでした。

戦国時代は天皇と朝廷にとって試練の時代でした。収入の途絶と公家たちの疎開で朝廷は財政面でも人材面でも窮乏する事となりました。しかし、それでも存続できたのは天皇の権威というものが実力社会の戦国時代であっても色褪せるものではなかったからです。それはなぜでしょうか。細川政元は将軍の首をすげ替えて天皇即位式など金の無駄だと言い捨てた人ですが自身が将軍や天皇になろうとはしませんでした。三好氏は将軍を襲殺までしてますがこれも自身が将軍になろうとはしませんでした。織田信長は斯波氏や足利義昭を擁立した後に対立して追放してますが用済みとなったから追い出したのではなく相手側から絶縁されてからの処置でした。徳川家康禁中並公家諸法度天皇の権力を抑制しますが天皇の存在自体を否定できませんでした。鎌倉時代の執権北条氏は将軍を簡単に擁立したり追い出したりしてますが自分らが将軍にはなりませんでした。鎌倉時代末期の将軍はほとんど業績が知られてませんがそんな(それこそ存在感なさそうな)将軍であっても必要不可欠だったのです。

天皇にしても将軍にしても場合によっては守護にしてもその下の身分の者にとっては自身の正当性を保証するために必要だったのです。天皇から将軍や関白に任命されて政治を代行するような面倒な事しないで自分が天皇になっちゃえばいいんじゃね?と思うかもしれません。しかし、そうなると例えば中国の魏のように後漢から皇帝の地位を奪って引導を渡したのはいいけど半世紀も保たずに晋に取って代わられたといった事になりかねません。曹操が最後まで後漢の家臣に留まったのも家柄が決して誇れない曹氏では皇帝になったとしても長続きしないのではないかと危惧したからではないでしょうか。宦官の子孫である曹氏が皇帝になれるのなら、それよりかは幾分か出自が良い自分らも皇帝になっても良いはずと司馬氏が思っても無理がないでしょう。蜀の攻撃を退け内乱を鎮圧して曹氏よりも実力が上回った司馬氏が簒奪に動いたのも当然です。その前例があったからです。また、西ローマ帝国が滅亡した欧州で異民族の長がキリスト教に改宗してくるんですが、これはローマ教皇の後ろ盾を得る事で子孫への王位の継承を正当化するためでした。もし、教皇のお墨付きが無かったら子孫が実力で上回る誰かに王座を奪い取られるかもしれないのですから。

蘇我氏にしても藤原氏にしても平清盛にしても足利尊氏織田信長豊臣秀吉徳川家康にしても子孫に自分の権力を受け継がせたいという気持ちはあったはずです。しかし、ただ力があるというだけでは自分の王朝が長続きするとは限りません。織田信長の子や孫がそうであったように子孫が皆、有能とは限らないからです。先の魏の例でも司馬氏に簒奪されたのは歴代の皇帝に曹操のような実力がなかったからです。話は逸れますが劉備はその点うまくやりました。諸葛孔明にわざと息子の劉禅大望を果たす器量が無いと見極めたらお前が蜀の皇帝になれと孔明がそれを断るだろうと見越したうえで告げます。これによって孔明はたとえ胸中に野心を秘めていたとしても劉家に忠誠を誓い続けなければならなくなり五丈原で過労死するまで蜀をたった一人で支える羽目となったのです。

まあ応仁の乱に関係ない話が大半になってしまいましたが、決して天皇が何もしなかったとか存在を無視された事なんてないことだけはご理解いただけたらと思います。