古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

帝国海軍が捨て去るべきだったもの

ずっと同じネタが続いたので息抜きとして違うネタをと思いまして。

日本海軍は戦艦が主役という考えを捨てきれず航空主兵に切り替えるのが遅れてしまった、という批判を聞かれた事があるかと思います。果たしてそうでしょうか?戦艦が主役という考えは戦前の各国共通でした。前の大戦で費用対効果が疑われた戦艦ですがそれでも他国が持っている以上は自国も持たないと安全保障上の脅威になりました。軍縮条約によるいわゆるネーバル・ホリデーを経て各国は疑いもせず戦艦の建造を開始しました。一方で航空機の性能も飛躍的に向上しましたがそれでもアメリカ海軍は空母の役割を偵察と位置付けていました。偵察によって敵情を把握すると同時に敵空母を撃滅して制空権を確保すれば戦艦同士の砲撃戦で観測機を自由に飛ばせるからです。軍縮条約で空母もアメリカが有利となっていましたから日本海軍も空母戦で敗北する事を想定して戦艦に搭載する観測機には敵戦闘機の妨害を自力で排除する性能を求めていました。

実際に先端が開かれると戦艦が活躍したのはビスマルク追撃戦ぐらいでした。ドイツ海軍に戦艦がわずかしか存在しないのだからしょうがないですが、大海軍同士がぶつかった太平洋でも第三次ソロモン海戦とスリガオ海峡海戦しか戦艦同士の戦いは見られませんでした。ガダルカナルを発端としたソロモン群島を巡る攻防戦で戦艦はほとんど関与しませんでした。わずかに金剛級によるガダルカナルへの二度の砲撃作戦があっただけです。他の戦艦は安全な後方にいました。これを来たる決戦に備えての温存だったとする意見もありますが実際は使い用がなかっただけでしょう。燃料を大量に食い損傷すれば修理の面倒も半端ではない戦艦は非常に使いにくい艦種だったんです。しかし、戦局が逼迫してくると戦艦を遊ばせておく余裕が失われていきます。そこで戦艦の使い道がいろいろと検討されたようで1943年5月には不沈戦艦つまり大和型を囮にして敵航空機を誘引してその隙に敵基地を攻撃する案まで出ました。この時点で既に戦艦の価値はここまで下がってしまっていたのです。

 決して日本海軍が戦艦に固執していたわけではない事はご理解いただけたかと思います。では何が問題だったか、それは決戦主義を最後まで捨てなかった事です。1944年6月のマリアナ沖海戦で連合艦隊は名実共に空母部隊が戦艦部隊を従えた第一機動艦隊で決戦を挑みましたが結果は見るも無惨な敗北に終わりました。主役を戦艦から空母に切り替えても決戦主義を捨てない限り展望が開けない事を理解できなかった結果です。

この海軍とくに連合艦隊の決戦至上主義は度々日本軍の合理的な戦略を妨害してきました。ガダルカナル戦後、陸軍の一部ではソロモン諸島と東部ニューギニアを放棄してはどうかという意見が出ましたが海軍は猛反対します。それは南東方面最大の拠点ラバウルを放棄する事でありラバウルが失われたら海軍の重要拠点であるトラックの安全が脅かされてアメリカ海軍との決戦に支障を来すというのが理由でした。海軍はラバウルを守るためには戦線を少しでも下げない方針で陸軍の中部ソロモンを放棄して北部ソロモンの防衛に専念すべきという意見に耳を貸さずにニュージョージア島に増援部隊を送る事を提案します。仕方なく陸軍はニュージョージア島に部隊を派遣しますが連合国軍の妨害を排除できずニュージョージア島守備隊は対戦車火器が著しく不足するなどアメリカ軍に圧倒的火力の劣勢で戦う事を余儀なくされました。それでも日本軍はアメリカの公刊戦史に『祖国の感謝を受けるに値する』と賞賛される奮戦を見せますが上層部特に海軍の状況をまるで理解しない指導によって撤退に追い込まれます。敗因は制海権の喪失による補給の途絶というガダルカナルと全く同じものでした。つまり海軍はガダルカナルの敗因をまるで理解していなかったのです。陸軍は補給の途絶が部隊の戦力に影響する事を理解してました。だから戦線を下げるべきだと主張したのです。まあ陸軍もポートモレスビーを陸路で攻略しようとするなど補給軽視しているところがありますが。海軍は陸軍と違って基本的に飢える心配はありません。それが補給線防衛で後手後手に回った要因でしょう。海軍に補給線を守る意思もその能力もないとわかった陸軍は増援部隊に開拓部隊も含めるようになりました。食料を現地で作れという事です。とても近代的な軍隊とは思えません。しかし、それで助かった命もあったのは事実です。

さて、海軍がラバウル固執したのはやがて来るであろうアメリカ海軍との決戦のためでした。で、どうなったかと言うとラバウル防衛に航空戦力を注ぎ込んだ結果、肝心の決戦つまりマリアナ沖海戦の時には戦力を消耗し尽くして前述のとうり大敗となりました。しかしながら海軍にも連合艦隊にはアメリカ海軍と互角に戦う能力は無いと冷静に分析できる人間はいました。それが全般的に広まれば違う戦い方もできたんでしょうが。マリアナ沖海戦の結果、サイパン島以下のマリアナ諸島は陥落し日本の敗北が確定します。それでも海軍は決戦主義を捨てません。1944年10月の台湾沖航空戦で敵艦隊撃滅の大戦果を誤報と知ってからも陸軍に伝えなかったのはレイテ決戦を放棄される事を恐れたからでしょう。沖縄でも決戦を指向して特攻機を大量に投入しますがこれも敗北に終わりました。

日本海軍の決戦主義の萌芽は日本海海戦とされます。でも、日本海海戦って艦隊決戦がクローズアップされて誤解されやすいんですが、日本海軍にとって懸案だったのはロシア艦隊の撃破ではなくて如何にロシア艦隊を捕捉するかでした。日本海海戦は決戦が目的で起こったのではなくロシア艦隊のウラジオストク入港を阻止するための戦いでした。出撃の際に連合艦隊が発した『本日晴朗ナレドモ浪高シ』は晴れているので敵を見つけやすいし海が荒れているので練度に勝る我が方が有利という意味です。ロシア艦隊がどのルートを通るかが懸案だったのでその捕捉に成功した時点で日本海軍の勝利は確定していたのです。しかし、あまりにも鮮やかな大勝だったために海軍の思考を決戦主義に拘束してしまったわけです。

近年、峡海パラダイムというのが提唱されているようです。簡単に言うとほとんどの海戦は陸地を巡って行われるという事だそうです。これは決戦主義に相反するものです。開戦前に海軍にもこれからの戦いは一回こっきりの決戦ではなく島嶼戦が主になるだろうと気づいた人たちが出てきました。もし、その考えがもっと早く海軍全体に広まっていれば戦争の様相も異なっていたでしょう。