古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

戦国時代①

戦国時代は始まりがいつか諸説があります。昔は応仁の乱が始まりというのが一般的だったかと思いますが、近年では明応の政変というのが有力みたいです。他にも伊勢宗瑞の伊豆侵攻からという説も聞いた事があります。

それはさておいといて、戦国時代というからには日本中で戦争が起きていたというイメージがあるかと思います。無論そうなのですが、ではそれ以前の日本には戦争が無かったのでしょうか。

江戸時代の平和なイメージから足利幕府も鎌倉幕府もそうではなかったかと思う人もいるでしょうが実際はそうでもありませんでした。

近世になる前の日本には紛争を当事者で解決する自力救済という概念がありました。解決といっても話し合いではありません。武力を用いた解決です。それが武士だけでなく農民なども村同士の諍いを武器でもって解決していました。織豊政権以前の日本は武士だけでなく百姓や僧侶なども武装していたのです。

現在の歴史教育がどう教えているかわかりませんが、鎌倉幕府には武士の所領をめぐる訴訟を取り扱う機関があると教わったかと思います。その継承である足利幕府にもそうした機能があるはずです。しかし、日本全国の訴訟をすべて取り扱うのは不可能でした。また、判決が下りてもそれを履行するという問題もありました。鎌倉幕府も足利幕府も判決を徹底させる力が不足していました。なので幕府にはからずに自分達で解決しようという事になるのです。

暴れん坊将軍をイメージしてください。城中では悪者も上様に跪いていますが自分の屋敷内では刃を向けてきます。室町時代でも山名氏や大内氏などは将軍に刃を向けて成敗されています。また、直接将軍に反逆しなくても幕府に任命された守護を拒否して抵抗した事例もあります。戦国時代が始まる前から日本は戦闘とは無縁ではなかったのです。特に関東では応仁の乱が勃発する前から享徳の乱と呼ばれる大乱が起きていました。

では戦国時代とその前とは何が違うのでしょうか。一つは幕府の影響力が著しく低下した事です。戦国時代を象徴する言葉に下剋上があります。身分が下の者が上の者を実力で倒して取って代わるという事です。これは幕府の権威が衰えていなかった時代では討伐される危険があるのでできなかった事です。しかし、応仁の乱で将軍家が分裂すると越前の朝倉氏のように守護にしてもらうという条件で敵方に寝返って主君である守護と対決する者が現れました。

応仁の乱はほとんど誰も得るもの無く終わりました。疲弊した守護たちに待っていたのは配下からの挑戦でした。支配を維持して戦国大名に転生できた者がいる一方で多くの者は没落していきました。応仁の乱以前では考えられなかった事でした。しかしながら守護権力の低下は乱以前から見られた事です。守護代は将軍からしたら陪臣になりますから幕政には参画できない立場でしたが、応仁の乱勃発前ごろになると幕政に影響力を及ぼす守護代クラスも出てきました。主君の守護よりも発言が重んじられてもいました。彼らが守護に取って代わらないのも守護を任命するのは幕府でありそれに背く事は将軍への反逆を意味するからです。だから乱で幕府の権威が失墜すると全国で下剋上の嵐が吹き荒れたのです。こうしてもとから平和などではなかった日本はさらなる戦乱へと突入していったのです。