古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

帝国海軍が捨て去るべきだったもの

ずっと同じネタが続いたので息抜きとして違うネタをと思いまして。

日本海軍は戦艦が主役という考えを捨てきれず航空主兵に切り替えるのが遅れてしまった、という批判を聞かれた事があるかと思います。果たしてそうでしょうか?戦艦が主役という考えは戦前の各国共通でした。前の大戦で費用対効果が疑われた戦艦ですがそれでも他国が持っている以上は自国も持たないと安全保障上の脅威になりました。軍縮条約によるいわゆるネーバル・ホリデーを経て各国は疑いもせず戦艦の建造を開始しました。一方で航空機の性能も飛躍的に向上しましたがそれでもアメリカ海軍は空母の役割を偵察と位置付けていました。偵察によって敵情を把握すると同時に敵空母を撃滅して制空権を確保すれば戦艦同士の砲撃戦で観測機を自由に飛ばせるからです。軍縮条約で空母もアメリカが有利となっていましたから日本海軍も空母戦で敗北する事を想定して戦艦に搭載する観測機には敵戦闘機の妨害を自力で排除する性能を求めていました。

実際に先端が開かれると戦艦が活躍したのはビスマルク追撃戦ぐらいでした。ドイツ海軍に戦艦がわずかしか存在しないのだからしょうがないですが、大海軍同士がぶつかった太平洋でも第三次ソロモン海戦とスリガオ海峡海戦しか戦艦同士の戦いは見られませんでした。ガダルカナルを発端としたソロモン群島を巡る攻防戦で戦艦はほとんど関与しませんでした。わずかに金剛級によるガダルカナルへの二度の砲撃作戦があっただけです。他の戦艦は安全な後方にいました。これを来たる決戦に備えての温存だったとする意見もありますが実際は使い用がなかっただけでしょう。燃料を大量に食い損傷すれば修理の面倒も半端ではない戦艦は非常に使いにくい艦種だったんです。しかし、戦局が逼迫してくると戦艦を遊ばせておく余裕が失われていきます。そこで戦艦の使い道がいろいろと検討されたようで1943年5月には不沈戦艦つまり大和型を囮にして敵航空機を誘引してその隙に敵基地を攻撃する案まで出ました。この時点で既に戦艦の価値はここまで下がってしまっていたのです。

 決して日本海軍が戦艦に固執していたわけではない事はご理解いただけたかと思います。では何が問題だったか、それは決戦主義を最後まで捨てなかった事です。1944年6月のマリアナ沖海戦で連合艦隊は名実共に空母部隊が戦艦部隊を従えた第一機動艦隊で決戦を挑みましたが結果は見るも無惨な敗北に終わりました。主役を戦艦から空母に切り替えても決戦主義を捨てない限り展望が開けない事を理解できなかった結果です。

この海軍とくに連合艦隊の決戦至上主義は度々日本軍の合理的な戦略を妨害してきました。ガダルカナル戦後、陸軍の一部ではソロモン諸島と東部ニューギニアを放棄してはどうかという意見が出ましたが海軍は猛反対します。それは南東方面最大の拠点ラバウルを放棄する事でありラバウルが失われたら海軍の重要拠点であるトラックの安全が脅かされてアメリカ海軍との決戦に支障を来すというのが理由でした。海軍はラバウルを守るためには戦線を少しでも下げない方針で陸軍の中部ソロモンを放棄して北部ソロモンの防衛に専念すべきという意見に耳を貸さずにニュージョージア島に増援部隊を送る事を提案します。仕方なく陸軍はニュージョージア島に部隊を派遣しますが連合国軍の妨害を排除できずニュージョージア島守備隊は対戦車火器が著しく不足するなどアメリカ軍に圧倒的火力の劣勢で戦う事を余儀なくされました。それでも日本軍はアメリカの公刊戦史に『祖国の感謝を受けるに値する』と賞賛される奮戦を見せますが上層部特に海軍の状況をまるで理解しない指導によって撤退に追い込まれます。敗因は制海権の喪失による補給の途絶というガダルカナルと全く同じものでした。つまり海軍はガダルカナルの敗因をまるで理解していなかったのです。陸軍は補給の途絶が部隊の戦力に影響する事を理解してました。だから戦線を下げるべきだと主張したのです。まあ陸軍もポートモレスビーを陸路で攻略しようとするなど補給軽視しているところがありますが。海軍は陸軍と違って基本的に飢える心配はありません。それが補給線防衛で後手後手に回った要因でしょう。海軍に補給線を守る意思もその能力もないとわかった陸軍は増援部隊に開拓部隊も含めるようになりました。食料を現地で作れという事です。とても近代的な軍隊とは思えません。しかし、それで助かった命もあったのは事実です。

さて、海軍がラバウル固執したのはやがて来るであろうアメリカ海軍との決戦のためでした。で、どうなったかと言うとラバウル防衛に航空戦力を注ぎ込んだ結果、肝心の決戦つまりマリアナ沖海戦の時には戦力を消耗し尽くして前述のとうり大敗となりました。しかしながら海軍にも連合艦隊にはアメリカ海軍と互角に戦う能力は無いと冷静に分析できる人間はいました。それが全般的に広まれば違う戦い方もできたんでしょうが。マリアナ沖海戦の結果、サイパン島以下のマリアナ諸島は陥落し日本の敗北が確定します。それでも海軍は決戦主義を捨てません。1944年10月の台湾沖航空戦で敵艦隊撃滅の大戦果を誤報と知ってからも陸軍に伝えなかったのはレイテ決戦を放棄される事を恐れたからでしょう。沖縄でも決戦を指向して特攻機を大量に投入しますがこれも敗北に終わりました。

日本海軍の決戦主義の萌芽は日本海海戦とされます。でも、日本海海戦って艦隊決戦がクローズアップされて誤解されやすいんですが、日本海軍にとって懸案だったのはロシア艦隊の撃破ではなくて如何にロシア艦隊を捕捉するかでした。日本海海戦は決戦が目的で起こったのではなくロシア艦隊のウラジオストク入港を阻止するための戦いでした。出撃の際に連合艦隊が発した『本日晴朗ナレドモ浪高シ』は晴れているので敵を見つけやすいし海が荒れているので練度に勝る我が方が有利という意味です。ロシア艦隊がどのルートを通るかが懸案だったのでその捕捉に成功した時点で日本海軍の勝利は確定していたのです。しかし、あまりにも鮮やかな大勝だったために海軍の思考を決戦主義に拘束してしまったわけです。

近年、峡海パラダイムというのが提唱されているようです。簡単に言うとほとんどの海戦は陸地を巡って行われるという事だそうです。これは決戦主義に相反するものです。開戦前に海軍にもこれからの戦いは一回こっきりの決戦ではなく島嶼戦が主になるだろうと気づいた人たちが出てきました。もし、その考えがもっと早く海軍全体に広まっていれば戦争の様相も異なっていたでしょう。

応仁の乱⑫天皇の苦悩

京都という市街地での戦闘を少しでも有利にするため両軍がこぞって家々に火を放った事で都は灰燼に帰しました。公家は戦火を避けて地方へ疎開しました。自領に向かう者もいれば大内氏などの大大名の庇護を受ける者もいました。しかし、天皇はそうはいきません。たとえ近場の移動でも行幸と称される仰々しさです。さらに厄介なのが何でもかんでも先例に束縛されている事です。上御霊社の戦いがあった時、後花園上皇後土御門天皇は室町殿へ緊急避難するんですがその際に輿ではなく乗り物を使ったんです。それが異例中の異例という事で問題になったみたいなんですが嘉吉の乱に例がある事が確認されました。避難する際にもいちいち先例を気にしなくてはならない有様だったのです。その避難先も次々と炎上焼失してその度に天皇は“行幸”を余儀なくされました。そう何度も居所を転々とすれば生活に不便が生じたはずでかなりのストレスだったと思います。しかし、後土御門天皇にとってストレスの原因はそれだけではありませんでした。

天皇にとって何よりのストレスは朝儀つまり朝廷の儀式ができない事でした。まず1468年元日の四方拝が中止と成りました。これは寅の刻に天皇が束帯を着し清涼殿の東庭へ出御し属星、天地四方、父母の山稜を拝して天災を祓い五穀豊穣、宝祚長久、天下泰平を祈願するというものです。なんで中止になったかと言うと禁裏に土岐成頼、仙洞御所に畠山義就が布陣していて近寄れる状況ではなかったからです。他にも節会も中止となりました。理由は兵革つまり戦乱ですが宴会を開こうにも公家は疎開してるし費用面でも朝廷の財政が逼迫してるのでどうにもならなかったようです。幕府も似たような状況で毎年恒例の椀飯が1471年に中止になりました。

その後1475年に四方拝が復活しますが節会はなかなか再開できずようやく1490年に復活できました。実に20年以上もの年月を経ての再開でした。その間、天皇は公家たちに儀式が途絶えないように練習を命じています。それでも長いブランクを埋める事はできず多少の不手際があったようです。しかし公家からしたら朝儀どころではなかったでしょう。戦乱を避けて地方の自領に疎開する者もいれば武家を頼って下る者もいました。地方に行ったのは戦火を避けるためでもありましたが戦乱の影響で地方からの収入が途絶えて窮乏したからでもありました。そこで現地に行って直接荘園を管理しようとしましたが戦闘に巻き込まれて命を落とす者もいました。一方で土佐一条氏のように地元に根付いて戦国大名化した例もあります。

後土御門天皇がここまで朝儀の復活に情熱を注いだのは朝儀を滞りなく行う事で天皇の存在を証明するためでした。しかし、戦乱のために思うように行かず公家たちは地方に逃げてしまって官職に就けるためにいちいち呼び寄せなければならない有様でした。何より財政の窮乏が天皇を精神的に追い詰めた要因でしょう。疲労困憊の天皇は何度も譲位を口にしますが周囲や幕府の反対で実現しませんでした。譲位をしようにもお金がありません。後土御門天皇は1500年に崩御しますが葬儀の費用が工面できず40日も御所に置かれたままだったそうです。死してもなお安らかにはさせてもらえなかったようです。朝廷の窮乏は次代の後柏原天皇も悩ませ即位の礼を挙げるのに20年以上も待たなければなりませんでした。次の後奈良天皇即位式を挙げられたのは践祚の10年後です。次の正親町天皇は2年後ですから徐々に財政状況は改善されていったようでその後は織田信長の援助でようやくにして朝廷は窮乏から脱したのでした。

戦国時代は天皇と朝廷にとって試練の時代でした。収入の途絶と公家たちの疎開で朝廷は財政面でも人材面でも窮乏する事となりました。しかし、それでも存続できたのは天皇の権威というものが実力社会の戦国時代であっても色褪せるものではなかったからです。それはなぜでしょうか。細川政元は将軍の首をすげ替えて天皇即位式など金の無駄だと言い捨てた人ですが自身が将軍や天皇になろうとはしませんでした。三好氏は将軍を襲殺までしてますがこれも自身が将軍になろうとはしませんでした。織田信長は斯波氏や足利義昭を擁立した後に対立して追放してますが用済みとなったから追い出したのではなく相手側から絶縁されてからの処置でした。徳川家康禁中並公家諸法度天皇の権力を抑制しますが天皇の存在自体を否定できませんでした。鎌倉時代の執権北条氏は将軍を簡単に擁立したり追い出したりしてますが自分らが将軍にはなりませんでした。鎌倉時代末期の将軍はほとんど業績が知られてませんがそんな(それこそ存在感なさそうな)将軍であっても必要不可欠だったのです。

天皇にしても将軍にしても場合によっては守護にしてもその下の身分の者にとっては自身の正当性を保証するために必要だったのです。天皇から将軍や関白に任命されて政治を代行するような面倒な事しないで自分が天皇になっちゃえばいいんじゃね?と思うかもしれません。しかし、そうなると例えば中国の魏のように後漢から皇帝の地位を奪って引導を渡したのはいいけど半世紀も保たずに晋に取って代わられたといった事になりかねません。曹操が最後まで後漢の家臣に留まったのも家柄が決して誇れない曹氏では皇帝になったとしても長続きしないのではないかと危惧したからではないでしょうか。宦官の子孫である曹氏が皇帝になれるのなら、それよりかは幾分か出自が良い自分らも皇帝になっても良いはずと司馬氏が思っても無理がないでしょう。蜀の攻撃を退け内乱を鎮圧して曹氏よりも実力が上回った司馬氏が簒奪に動いたのも当然です。その前例があったからです。また、西ローマ帝国が滅亡した欧州で異民族の長がキリスト教に改宗してくるんですが、これはローマ教皇の後ろ盾を得る事で子孫への王位の継承を正当化するためでした。もし、教皇のお墨付きが無かったら子孫が実力で上回る誰かに王座を奪い取られるかもしれないのですから。

蘇我氏にしても藤原氏にしても平清盛にしても足利尊氏織田信長豊臣秀吉徳川家康にしても子孫に自分の権力を受け継がせたいという気持ちはあったはずです。しかし、ただ力があるというだけでは自分の王朝が長続きするとは限りません。織田信長の子や孫がそうであったように子孫が皆、有能とは限らないからです。先の魏の例でも司馬氏に簒奪されたのは歴代の皇帝に曹操のような実力がなかったからです。話は逸れますが劉備はその点うまくやりました。諸葛孔明にわざと息子の劉禅大望を果たす器量が無いと見極めたらお前が蜀の皇帝になれと孔明がそれを断るだろうと見越したうえで告げます。これによって孔明はたとえ胸中に野心を秘めていたとしても劉家に忠誠を誓い続けなければならなくなり五丈原で過労死するまで蜀をたった一人で支える羽目となったのです。

まあ応仁の乱に関係ない話が大半になってしまいましたが、決して天皇が何もしなかったとか存在を無視された事なんてないことだけはご理解いただけたらと思います。

応仁の乱⑪天皇の奮戦

今年は近代以降初めてとなる上皇が誕生した年ですが、ある弁護士の先生が天皇平安時代が終わってからは存在感が無かったみたいな発言をされてました。確かに鎌倉時代から江戸時代にかけて現役の天皇が歴史を賑やかせた事例って後醍醐天皇だけです。念のために承久の乱上皇が主犯です。あとは孝明天皇がまだ知名度がある程度ですかね。教科書には歴代天皇系図は記載されていても個々の天皇が何をしてたかなんていちいち書かれてません。小生だって応仁の乱天皇が何をしてたかなんて知りませんでした。でもだからって当時の人たちにとっても天皇の存在感なんて無かったというのは早計でしょう。いまの我々と同じように当時の人たちにとっても天皇はリアルに存在していたのです。だいたい本当に天皇に存在感すら無かったら天皇に任命されて征夷大将軍となって幕府を開くというシステムなんて成立するわけがありません。では、未曾有の大乱となってしまった15世紀後半の日本で天皇は何をしていたのでしょう。今回は室町時代天皇を取り上げたいと思います。
1392年に南北合一が成立して二人の天皇が何十年も存在していた異常事態は終息しました。しかし、前回でも触れましたが交互に天皇を出し合うという和議での約束を北朝側が一方的に破った事に南朝側が反発して後南朝として抵抗活動を開始しました。その南朝系の皇統の末裔を西軍が擁立しようとしましたが結局は断念しました。なぜ北朝後小松天皇は約束を破ったのでしょうか。想像するに勝者である自分達がなぜ譲歩しなければならないのかという思いではないでしょうか。そもそも鎌倉時代に交代で天皇を出そうねという約束ができたのにそれを一方的に破ったのは南朝後醍醐天皇です。それをまた交代制に戻そうなんて図々しいにも程があります。それに南朝は最後まで忠義を貫いてきた楠木一族の拠点だった千早城が陥落して河内国を失陥するなど軍事面でも追い詰められていました。対等な立場で和睦を結べる相手ではない。後小松天皇はそう考えたかもしれません。これに将軍義持が賛同して後小松天皇は躬仁(即位後に実仁と改名)親王に譲位しました。後小松天皇が和議を反故にしたのも和議を守ってたら院政ができないというのもあるでしょう。しかし、即位した称光天皇は病弱で当時まだ14歳で子供がいません。継承問題が起こったわけですが紆余曲折の末に伏見宮貞成の子が後花園天皇として称光天皇の死後に即位しました。この過程にはかなりのドタバタ劇があったんですが今回は割愛します。
後花園天皇は政治への意欲が旺盛な人でした。勿論、政治を実際に行うのは幕府です。それでも影響力を行使する事はできます。その手段の一つが綸旨の発給です。代表的なのは1438年の永享の乱鎌倉公方を賊軍認定して治罰綸旨を下しています。他にも嘉吉の乱の赤松氏討伐にも綸旨を出しています。いずれも幕府の要請によるものですが綸旨の発給には天皇の強い意志がありました。赤松氏討伐の件では綸旨の草案では単に赤松氏は悪い奴らだから征伐しろという内容の事務的な素っ気ない文面なのに対し後花園天皇が自ら添削した内容は赤松氏は天皇の命令を播磨で遮ってると討伐の理由を具体的に明示しています。また討伐に参加する大名諸将に天皇に対しての奉公を全うするよう求めています。さらに赤松氏に与同する者も同じく討伐の対象にすると宣言しているのです。ただ単に幕府に要請されたから出しましたというようなものでなく政治の混乱を一刻も早く鎮めたいという天皇の強い意志が込められているのがわかるかと思います。
綸旨の発給は天皇の権威を高める効果がありました。そもそも足利将軍家にとって身内や家来を征伐する戦争でなぜ天皇の命令を賜る必要があったのか。嘉吉の乱を例にすると当時の管領細川持之が幕府の命令だけでは諸大名が従ってくれるかわからないと泣きついてきたからでした。しかし、本来武家同士の私戦では綸旨は出ない事になっています。それを管領の強い要請によって出される事になったのですが、ただ単に発給したのでは幕府から要請があったから出したという事務的な手続きに終わってしまいます。後花園天皇が添削した事で赤松氏討伐を天皇による命令だという天皇を主体とした戦争に仕立て上げる事に成功したのです。
このように後花園天皇足利義満皇位簒奪未遂以来失墜していた天皇の権威を回復させる事に成功しましたが真意は天下の泰平でした。足利義政元服後の初名が義成でしたが命名したのは後花園天皇です。成には『戈』という漢字が使われています。天皇は若き将軍に武威でもって天下を治めてほしいと願い期待したのです。しかし、周知のように義政はあまり理想的な将軍ではありませんでした。長禄・寛正の飢饉で庶民が苦しんでいるのに花の御所で遊び呆けている始末です。そんな義政に天皇漢詩でもって諌めました。義政はそれを読んで自らの行為を慎んだそうです。現在の我々にとっても昔の人達にとっても天皇は近い存在ではなかったにしても決して存在感が皆無というような事は決してありませんでした。ろくに調べもせずに鎌倉時代以降の天皇は存在感がなかったなどと弁護士ともあろう方が言えたものです。
しかし、後花園天皇にも自分の力には限界がある事を思い知らされる大事件が起こります。言うまでもなく応仁の乱の勃発です。すでに譲位して上皇になっていたんですが東軍総帥の細川勝元に停戦を要請します。しかし、それまでの幕府による賊徒討伐ではなく幕府を二分しての大戦とあっては事態は深刻で勝元もいかに上皇の要請であっても引き下がる事はできませんでした。自身の力の限界を悟らされた上皇は出家します。上皇は前に畠山政長討伐の綸旨を発給してましたがそれが今回の大乱を招いたと自責の念にかられての行動でした。無責任な将軍義政に対して為政者の不徳の責任の取り方として世間からは賞賛を浴びたそうです。法皇はその後も大乱の終結に尽力しますがいかなる努力も実る事はありませんでした。この時の法皇の心情を吐露したとされる書状には「無益千万」と記されています。大乱の終結を見届ける事なく法皇は1470年12月27日に避難していた室町殿で世を去りました。葬儀には戦乱中の外出に勝元が反対したのを押し切って義政も参列しました。

応仁の乱⑩西軍の幕府

大内政弘の増援で意気が上がった西軍ですが将軍を東軍に押さえられているという不利は否めず将軍の敵となってしまったというプレッシャーは諸将にとって大きなストレスとなっていました。しかし、西軍諸将はそう簡単に引き下がるわけにはいきませんでした。乱の原因が守護大名家の家督争いである以上負けるわけにはいかなかったのです。西軍が東軍に対して不利なのは大義名分です。前哨戦となった御霊合戦で西軍が勝利したのは将軍を自陣営に取り込む事で畠山政長を孤立させる事に成功したからです。しかし、将軍は東軍が固く守っていて奪取はできそうにありません。そこで西軍は自分達の将軍を擁立する事にしました。誰を擁立するか、言うまでもなく足利義視しかいません。
義視は僧籍にあったのを兄の義政に請われて還俗して次期将軍候補となった人です。当時の評判は「毎時、義理正しく(物事の正しい道筋という意味)仰せらる」と好評で乱が勃発すると鎧始を行って参陣し飯尾為数という奉行人が西軍についたと知ると速攻で成敗するという迅速な対応ぶりを見せています。このように当初は兄の義政とともに東軍に身を置いていた義視ですが、かつて自分を陥れようとした伊勢貞親が兄に呼び戻されたと知ると少なからず動揺したようです。義政としては有能な側近を欲しただけという理由だったでしょうが義視は兄に不信感を抱くようになりました。それだけでなく細川勝元からも出家を勧められるという不愉快極まりない扱いを受けています。「バカにしとんのか?」と言ったかもしれません。1468年11月には義視を義政が誅殺するという噂が流れたり日野富子と兄の勝光が義視を中傷したりもして東軍に義視の居場所は無くなってしまいました。かと言って追い出される事もありません。西軍に利用されるのを防止するためでした。しかし、兄と違って意識高い系(義政もある意味意識が高いと言えん事もないが)の義視がそんな不本意な扱いに我慢できるわけがありません。西軍の御輿に乗っかる事に決めた義視は23日に斯波義廉の屋形に入りました。山名宗全以下西軍諸将が諸手を挙げて歓迎したのは言うまでもありません。
しかしながら義視は将軍宣下を受けたわけじゃないので正式な将軍にはなれません。天皇も東軍の保護下にあるのでは将軍になるのは無理です。それでも宗全らは翌年正月に年頭祝いとして剣馬を義視に献上しています。これは西軍諸将が義視を将軍と見なしているからでした。たとえ将軍に就任してなくても足利家の血筋であれば問題ないという認識でした。6代義教の急死後に義勝が後継になった時も足利家の家督にはすぐに就きましたが将軍になるまでには時間がかかっていました。義勝死後に義政が将軍になるまでも同様です。将軍=足利家という理解が浸透していた当時の人達にとっては将軍になっててもそうでなくても足利家家督は同時に征夷大将軍だったのです。これは『形式』よりも『実体』が重視されつつあったからですが、義視は将軍としての実績を重ねる事で事実上の将軍となろうとしたのです。
将軍としての実績それは将軍としての権限を行使する事です。義視は1469年4月から御内書の発給をしていますが御内書とは将軍の私的な命令を伝える文書で将軍による署名捺印がなされるため公的な命令書としての効果がありました。軍勢の催促や恩賞の給付に用いられました。義視はこの御内書でもって四国と九州の大名に軍勢を率いて上洛するよう促したり3年後の話ですが東軍の山名是豊麾下だった毛利元就の※お祖父さんが西軍に鞍替えしたのを喜んで戦功を挙げるように伝えたりしています。また所領の給付にしても備後小早川家の本家である沼田家の煕平が死ぬと煕平が東軍に属していたのを理由に所領を没収して分家の弘景に与えるとの御内書を発給しています。実は煕平が家督を継承した頃に当時の将軍義教から弘景の父盛景に家督を譲るよう裁定を下していた事がありました。直後に義教が横死したために裁定は有耶無耶となり煕平が家督を継いだのですが義視は父の裁定を引き継ぐ事で自分が足利家の正統であるとアピールしようとしたのです。この他に大内政弘左京大夫に推挙するなど西軍諸将の官途授与の仲介を行うなど将軍の実績作りに邁進しています。とはいえ正規の将軍ではない義視の推挙では朝廷も恐らくは取り上げなかったと思いますが西軍内では政弘は左京大夫なのでした。

このように事実上の将軍として振舞ってきた義視ですが、幕府機能の充実も図っています。管領には斯波義廉が、政所執事には伊勢貞藤が任じられました。しかし、正規の奉行人のほとんどが東軍に属している状況では兄義政の幕府に対抗するには人材が不足していました。それでも西軍にとって自分達の将軍がいる事は心強いものがありました。とはいえまだ足りないものがあったのです。そう天皇です。実は義視が出奔してすぐに御花園上皇より義視追討の院宣が下されていました。たとえ将軍を擁立できたとしても天皇が敵側にいれば賊軍認定されてしまいます。西軍は自分達の幕府だけでなく自分達の朝廷をも作ろうとしたのです。西軍には武士だけでなく公家も10名ほど参加したようです。1469年4月に応仁から文明へ改元されましたが西軍は別の元号を使用しているとの噂が流れました。永享の乱のように改元に従わない事は朝廷への挑戦と見做されます。西軍が別の元号を使用していたのが事実ならこの時点で彼らは自分達の天皇を擁立するつもりだったのでしょう。

では誰を擁立するか。後土御門天皇には兄弟がいません。それでも天皇に擁立できる人物に成り得る者はいました。南朝皇胤です。南北朝合一後も交代で天皇に即位するという和議を反故にした朝廷と幕府に反発した南朝勢力が後南朝として抵抗運動を開始していました。一時は神器を奪ったりもしてこの時点でもまだ勢力が残存していました。その南朝皇胤ですが、南朝最後の後亀山天皇の孫小倉宮聖承の末裔で18歳の僧侶でした。しかし、それより年下だったとも伝えられており実体は不明です。そのため擁立に反対する者が現れました。最初に反対したのは畠山義就です。彼の場合は後南朝の勢力が彼の領国である紀伊と河内に少なからず存在して『南主御領』として接収される可能性があったからでした。それからも美濃守護代斎藤妙椿も皇胤の上洛に反対するなど西軍内に擁立反対派が増えていきました。ついには義視までもが皇胤に会おうとすらせず擁立反対に回ってしまいました。しかし1472年1月の西軍の記録に南主とある事から結局は擁立したようです。こうして苦心惨憺して擁立しようとしたわけですが以降の史料に皇胤は登場しなくなります。年齢ですら確定されていない素性が確かでない人物を天皇に擁立するリスクに義視以下西軍の面々が尻込みしてしまったのでしょう。正規の天皇と別の天皇を擁立するだけでも賊軍認定確定なのにその人物が皇統とは関係のない人物だったと後でわかれば西軍は完全に支持を失ってしまいます。こうして天皇の擁立に失敗した西軍は東軍に対して大義名分で不利となってしまったのでした。

※治部少輔豊元。

応仁の乱⑨相国寺の戦い

大内周防介政弘は1446年に大内教弘の嫡男として生まれました。幼名は亀童丸。19歳で家督を継ぎます。大内氏細川氏日明貿易の主導権を巡って対立しており政弘が西軍として参戦したのも貿易の独占が目的でした。当時の貿易船は幕府と細川氏大内氏の3隻で1隻の利益は数十億円にのぼると推定されています。当時は貨幣経済が急速に浸透しつつあった時代でその貨幣も大陸からの輸入だったので貿易の独占は貨幣経済を牛耳る事を意味しました。また足軽も多くは金銭で雇われるため軍事面でも貨幣の力は侮れませんでした。幕府も土地収入が低いので関所から徴収したり特権や保護を与える代わりに税金を取るなど金銭による税収で財政を賄っています。将軍義政妻の日野富子は蓄積した銭を大名に貸し付けて利子で儲けていました。敵対した大名にも貸していたというのだから驚きです。政弘は守護を務めている周防・長門豊前筑前の他に安芸・石見・筑後・伊予にも動員をかけ2000艘もの大船団でもって瀬戸内海を制圧して摂津兵庫に上陸しました。大内軍接近の報に東軍は大内軍が来る前に決着をつけようと斯波義廉邸を猛攻します。しかし、西軍の抵抗は激しく8月になって大内軍が到着すると東軍は兵を引き上げました。その時に細川勝元天皇上皇を花の御所に移送しています。両軍はしばし睨み合いました。

1467年9月13日、大内軍の来援で士気が向上した西軍は東軍本陣である相国寺を西と南から攻撃を開始しました。これに対し東軍も兵を相国寺に集中して烏丸高倉の御所から三条殿の間に迎撃ラインを構築して待ち構えます。西軍の猛攻に東軍は必死の抵抗を見せ突破を許しません。10月3日、膠着状態に苛立った山名宗全は内通した相国寺の僧に放火を指示します。黒煙があがるのを合図に西軍は御所と三条殿を一気に占拠して相国寺に迫ります。相国寺東門の守備隊は諸堂が燃えているのを見て引いてしまうも安富元綱らが500ばかりの兵で大内軍と土岐軍相手に奮戦し結果全滅するも代わって赤松軍が防戦に立ちました。未明から夕刻までの戦闘で東軍は甚大な損害を被るも退かず疲弊した西軍は兵を引き上げさせました。東今出川の堀が戦死者で埋もれてしまったというからかなりの激戦だったようですが、中には遺体の山に身を潜めていた者も少なからずいて戦闘が終わると底からゾロゾロと這い出てきたという伝承があります。本陣の相国寺が炎上焼失した事で東軍は勝元邸や花の御所への移動を余儀なくされ相国寺の焼け跡は一色義直六角高頼らに占拠されてしまいました。周囲は西軍によって隙間なく包囲され勝元は将軍を他所へ避難させようとします。しかし、将軍はこれを拒否しました。将軍はすぐ側の相国寺が炎上して火の粉が降って来るのを見ても平然と杯を傾けていたといいます。なかなかの度量です。さて風前の灯火なった東軍の窮地を救ったのは畠山政長でした。政長は普光院跡から相国寺跡の西軍を攻撃します。政長の姿を確認した一色・六角軍は政長軍めがけて突進しますが、それは政長が仕掛けた罠でした。飛び出してきた西軍を東軍の伏兵が横槍を突いて崩れたところを政長軍が攻撃して西軍を崩しました。西軍が混乱していると見た東軍は勢いを増して相国寺の陣地を奪回しました。この3日から4日にかけての相国寺をめぐる戦いが応仁の乱で最大の激戦とされ、戦力が疲弊した両軍が兵を休息させている間に陣地を要害化したために以後は大規模な衝突は起こりませんでした。その代わりに足軽による局地戦が主となってその度に放火や略奪が行われたため延焼・荒廃した地域が広がり人々が数百年かけて築いてきた京の都はつい数ヶ月前までの繁栄が幻だったかと思えるくらい見る影もなく荒れ果ててしまいました。しかし、大乱はまだ1年目でしかなかったのです。

応仁の乱⑧拡大する戦火

畠山政長を討ち細川勝元を失脚させた事で山名宗全らは浮かれてしまっていましたが、勝元は政長を自邸に匿いながらその政長を含めた自派の大名と密かに挽回策を練っていました。まずは山名方の大名の領国に侵攻して京都への増援を阻止する、その隙に大軍を速やかに入京させて手薄となっていた山名方(政長を討ったと早とちりしたので軍勢を早々に帰国させていた)を殲滅する。この戦略に勝算ありと見た勝元ら細川派は5月に行動を開始します。まず赤松氏庶流の下野守政秀が播磨に侵攻します。播磨は嘉吉の乱で山名氏に奪われた赤松氏の領国です。山名氏の統治は苛烈だったそうで赤松軍はたちまち播磨を制圧しました。その後赤松軍は美作と備前に攻め入ります。越前では斯波義敏が大軍で押し寄せて次いで尾張遠江にも侵攻しました。他にも武田大膳大夫信賢が一色左京大夫義直が領する若狭を攻撃しています。こうして山名方の領国を混乱させている隙に勝元は自国から大軍を呼び寄せます。細川氏は機内周辺に領土の多くが集中していてかつそれらは大国が多くて大軍を素早く京都に集結させる事が可能でした。さらに管領を長らく務めていた関係で将軍直属の親衛隊である奉公衆に味方が多くて主従関係を結んでいる者も少なくありませんでした。領国の集中と家中の統一が他の管領家が衰退していく中で同家だけが乱後も勢力を保てた要因でした。

すっかり細川派には戦意が消え失せたと慢心していた山名宗全以下の山名方諸侯は事態の急変に仰天したでしょう。1467年5月20日、宗全は味方の大名を集めて評定を開き領国から兵を急派させました。しかし、機先を制せられた不利は否めず、4日後将軍を勝元に押さえられてしまいます。前回、将軍と天皇を押さえられた事が細川派の敗因だったからです。将軍だけでなく義視や義尚、日野富子ら将軍の一族も手中にした勝元は正当性を手にする事ができたのです。そして、実相寺を攻撃して一色義直を追い払って相国寺と北小路町の自邸に本陣を置きます。対する山名宗全五辻通大宮東の自邸に本陣を置きました。以後、細川方を東軍、山名方を西軍と呼称します。東軍は大将の細川右京大夫勝元を筆頭に斯波左兵衛佐義敏、畠山政長吉良義真、吉良義富、赤松政則、山名是豊、佐々木正観、武田信賢、富樫鶴童丸他総勢161500余騎、西軍は山名右衛門督持豊入道宗全を大将に宮田教実、宮内豊之、吉良義勝、斯波治部大輔義廉、畠山右衛門佐義就、一色義直、吉良義直、仁木教将、土岐成頼ら総勢116000余騎で28万人近い兵が京都に集結した事になります。その数字の信憑性はともかくそれでも10万人ほどの兵が入京してきたはずでこれだけの大軍が京都に入って来るのは初めての事だったでしょう。

1467年5月26日、東軍による西軍本陣への攻撃が開始されました。ついに全面的武力衝突となったのです。保元の乱でもそうだったように市街戦では火矢が使用される傾向にあるようで足軽による放火も相まって百万遍地域や行願寺、成菩提寺、冷泉中納言邸といった多くの屋敷や地域が兵火によって次々と焼失していきました。戦闘は二日間に及び上京一帯は焦土と化してしまいました。辺りは死者が散乱して辛うじて生きている者も小規模な戦闘が各所で続発していては回収する余裕などありませんでした。そのため動けない負傷者は放置するしかなくその発するうめき声はまさにこの世の地獄を演出していた事でしょう。しかし、この世の地獄はまだ始まったばかりだったのです。

28日、将軍義政は東西両軍に停船命令を出します。前回は畠山政長と義就の当人同士で決着をつけろと無責任な対応をしていた将軍でしたが、それぞれに与する大名が京都を戦火に陥れた状況を見てさすがに慌てた事でしょう。開幕以来の大乱に不安になったのか義政はこの頃に伊勢貞親を復帰させています。かつて弟の足利義視を讒言して切腹を命じた貞親を復帰させるのだから相当に困っていたのでしょう。しかし、後の水野越前守がそうだったように一度失脚した者は復帰してもかつての権勢を取り戻す事はできず貞親もあまり大した活躍はしませんでした。却って貞親の復帰に義視が兄に不信感を抱いてしまう結果を招いただけでした。

さて、この停戦命令は両軍に対して出されたものでこの時点では将軍は中立的な立場でした。しかし、それが仇となったのか将軍は以後の行動を勝元に掣肘されてしまって東軍寄りの立場を取るようになりました。将軍を手中にした強みがここで発揮されます。6月1日、勝元は将軍に牙旗を下すよう要請します。牙旗とは昔の中国で大将の旗に象の牙を飾っていた故事に因んだ名称でそれが立てられるという事は天子の軍隊この場合は幕府の正規軍である事を表明するものでした。これに将軍の義兄である日野勝光が反対します。牙旗は謀反人を討伐するときに授けるもので私戦はそれに該当しないと言うのです。これに勝元は激怒して勝光邸を焼きはらおうとしたそうです。冷静なイメージのある勝元ですがかつてない大乱に気持ちが昂ぶっていたのでしょうか。肝心の牙旗は所在が不明だったので3日に義政は新しく作らせて8日に室町殿の四足門に立てられました。さらに7月には斯波義廉に代わって勝元が管領に任じられました。これにより東軍は官軍となり西軍は賊軍となりました。この事実は実際に将軍が義視に西軍討伐を命じると同時に西軍諸将に帰参を呼びかけた事もあって西軍に参加した大名に相当なプレッシャーをかけたようで斯波義廉土岐成頼六角高頼は自邸に引き篭もったそうです。

追い詰められてしまった宗全は東軍との正面衝突は避けて足軽を使ったゲリラ戦で時間を稼ぐ作戦に出ました。この当時は騎馬武者も戦闘時には下馬して徒歩で戦います。京都という市街地での戦闘がそうさせているのですが、こうした市街地での戦闘に足軽は有効でした。公家や僧侶からしたら自邸や寺に押し寄せて強盗を働き挙句には放火して去っていく足軽は相当に憎い存在で足軽を忌み嫌う記述の日記は多いです。後に一条兼良が9代将軍義尚に足軽の禁止を要望しますが将軍をもってしてもそれは叶いません。時代の流れというものです。そうして時間を稼いでいる間に宗全は領国から根こそぎ動員した3万の兵を丹波に集結させておりそれらが京都に向かいつつありました。そして、西国の大大名大内政広から大軍を率いて上洛するとの約束を取り付けており逆転は可能だと確信していました。空前の大乱はまだ始まったばかりでした。

応仁の乱⑦御霊合戦

文正の政変で伊勢貞親を放逐した事によって共通の敵を失った山名派と細川派の対立は深刻化していきました。すでに畠山家と斯波家で内紛が勃発している以上、平和裏に解決するのは不可能でした。唯一、可能性があるとしたら将軍義政による調停で実際に戦端が開かれると事態の収拾に動きますが伊勢貞親という右腕を失った将軍にはもうどうする事はできずあろうことか当事者同士で決着を着けてしまえと匙を投げてしまいました。将軍専制を目指して政治を操ろうとあれこれ画策してきた義政でしたがここに至って制御不能だという事に気付いたのでした。そもそも、問題の発端が将軍の無責任な対応にあるのだから調停がうまくいかなかったのも道理です。

1466年12月25日、畠山義就が軍勢を率いて上洛して千本釈迦堂に陣を敷きました。山名宗全の指示によるものでした。年が変わって5日には将軍に謁見し畠山家の家督が事実上安堵されました。寝耳に水なのはライバルの政長と後ろ盾の細川勝元でしょう。ついこないだまで政長は管領として元日の将軍家年賀の宴席を取り仕切ったばかりでした。しかし、その翌日に予定されていた将軍の政長邸への御成は中止され政長には出仕停止が命じられました。さらに、追い打ちとして義就が将軍に謁見を許されたという情報が入ってきます。義就が赦免されたという事は自身の失脚を意味します。政長には管領職からの罷免と万里小路の屋敷を義就に譲渡せよとの命令が伝えられます。政長の後任の管領には山名派の斯波義廉が就任しました。山名派はクーデターによる政権獲得に打って出たのです。

事態の急変に勝元は義政に義就追討を直談判しようとしますがすでに将軍は山名派の手中にありました。翌16日には政長が足利義視を擁立しようとしますがこれも山名派に阻止されました。追い詰められた政長は戦いを決意します。執事の神保宗左衛門は屋敷で戦うのは防御の面で不利だから上御霊社に布陣して細川勝元の来援を待つべしと進言します。献策を受け入れた政長は6000余の兵を率いて屋敷に火を放って上御霊社に移動すると周辺の放火を命じます。これは京都の町が平坦で要害となりうるのは寺社の堂宇や広大な公家屋敷に限定されていたからです。敵の陣所になりそうな場所を事前に潰しておく戦術でした。開始早々にして京都は灰燼に帰す事が確定したようなものです。

政長挙兵すの報に宗全は後花園上皇後土御門天皇を花の御所に迎え入れます。朝廷が細川派の手に落ちないようにするための処置でした。一方で義就は千本釈迦堂から出陣して山名派の軍勢と合流して上御霊社に押し寄せて大軍でもって政長軍を包囲しました。ちょっとここで畠山家の内紛についておさらいしておきます。義就は畠山持国の長男ですが生まれるのが遅かったために父の持国は弟を後継者とします。しかし、実子の義就が生まれたために弟を廃嫡したのでした。これに一部の家臣が反発、失意のうちに没した弟の子さらにその弟の政長を擁立して持国・義就父子に反抗します。その裏にはライバルの失脚の好機と見た勝元と宗全の画策がありました。当初は将軍の支持を得ていた義就が優勢でしたが、大和での勝手な振る舞いが将軍の逆鱗に触れて追放されてしまいます。義就は大和の国人古市澄胤あるいは朝倉孝景を介して斯波義廉と提携を図り義廉の後ろにいる宗全を頼って巻き返しの機会を待っていたのでした。宗全もかつては敵でしたが政長の後ろに勝元がいる以上他に頼れる人間はいませんでした。

上御霊社は周りを鬱蒼とした木々に覆われ南は相国寺の大堀、西は細川の要害となっていたので攻めるとしたら北と東からでした。幕府軍の先陣は遊佐河内守で馬から降りて向かっていきます。他の兵もこれに続きますが、放火による煙とこの日は雪でしかも寒さのためにみぞれ雪となって兵たちの顔を容赦なく叩きつけた事で進撃が鈍ってしまいます。そこを政長方の竹田与ニにつけ込まれて矢の一斉射撃で600人の損害を出して潰走しました。続いて朝倉孝景が前に出ますがこれも攻めあぐねていたずらに損害を増すばかりでした。結局これも山名政豊に交替するしかなくその山名勢も政長方の防壁を崩す事はできませんでした。そうこうしているうちに日没となったのでこの日の戦闘は終了しました。

緒戦は政長方の勝利となりましたがいずれ敗北するのは目に見えてました。政長は勝元に援軍を請う使者を走らせます。しかし、勝元は事前に斎藤親基から政長を助けるなという将軍からの命令を伝えられていました。宗全の差し金である事は言うまでもありません。勝元は追い込まれました。もし、政長を見捨てたら他の守護大名からの信頼は消え失せて彼の威信は失墜します。かといって政長を助ける事は将軍への叛意を表明したも同然です。もっとも、この命令は義政の本意ではなく斎藤はこっそりと政長を助けるようにとの将軍の密命を伝えています。とはいえ将軍と天皇が山名方の手にあっては自分に武運は無いと勝元は使者に鏑矢を一本渡します。いまは助ける事ができないからなんとか脱出してくれという意味です。そこで政長は敵の遺体を拝殿に積み上げて建物に放火しました。すぐに幕府軍が押し寄せてきて多数の焼死体を確認します。義就は政長が負けを認めて自害したのだろうと判断します。政長が終日拝殿で指揮を執っていたからでした。

細川の 水無瀬を知らで 頼みきて 畠山田は 焼けそ失ぬる

戦いの後に洛中に舞った落首です。見捨てた事で政長を焼死体としてしまった勝元への世間からの批判でした。これにより勝元は失脚します。勝利した山名方の大名は連日酒宴に明け暮れ田楽や猿楽を堪能したそうです。3月3日の節句では宗全を筆頭に斯波義廉畠山義就、一色左京大夫土岐成頼、佐々木高頼らが将軍邸に挨拶に出向いた後に義視邸へ近かったので駕籠を使わず徒歩で向かったのですが、皆が金襴緞子の衣装に身を包んで太刀は金銀珠玉で装飾されるなどまるで中国の古典から富人が飛び出てきたようだと人々を驚嘆させました。まさに我が世の春を謳歌している図ですが、彼らが浮かれている間にも細川勝元は反撃の準備を着々と進めていたのでした。