古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑧拡大する戦火

畠山政長を討ち細川勝元を失脚させた事で山名宗全らは浮かれてしまっていましたが、勝元は政長を自邸に匿いながらその政長を含めた自派の大名と密かに挽回策を練っていました。まずは山名方の大名の領国に侵攻して京都への増援を阻止する、その隙に大軍を速やかに入京させて手薄となっていた山名方(政長を討ったと早とちりしたので軍勢を早々に帰国させていた)を殲滅する。この戦略に勝算ありと見た勝元ら細川派は5月に行動を開始します。まず赤松氏庶流の下野守政秀が播磨に侵攻します。播磨は嘉吉の乱で山名氏に奪われた赤松氏の領国です。山名氏の統治は苛烈だったそうで赤松軍はたちまち播磨を制圧しました。その後赤松軍は美作と備前に攻め入ります。越前では斯波義敏が大軍で押し寄せて次いで尾張遠江にも侵攻しました。他にも武田大膳大夫信賢が一色左京大夫義直が領する若狭を攻撃しています。こうして山名方の領国を混乱させている隙に勝元は自国から大軍を呼び寄せます。細川氏は機内周辺に領土の多くが集中していてかつそれらは大国が多くて大軍を素早く京都に集結させる事が可能でした。さらに管領を長らく務めていた関係で将軍直属の親衛隊である奉公衆に味方が多くて主従関係を結んでいる者も少なくありませんでした。領国の集中と家中の統一が他の管領家が衰退していく中で同家だけが乱後も勢力を保てた要因でした。

すっかり細川派には戦意が消え失せたと慢心していた山名宗全以下の山名方諸侯は事態の急変に仰天したでしょう。1467年5月20日、宗全は味方の大名を集めて評定を開き領国から兵を急派させました。しかし、機先を制せられた不利は否めず、4日後将軍を勝元に押さえられてしまいます。前回、将軍と天皇を押さえられた事が細川派の敗因だったからです。将軍だけでなく義視や義尚、日野富子ら将軍の一族も手中にした勝元は正当性を手にする事ができたのです。そして、実相寺を攻撃して一色義直を追い払って相国寺と北小路町の自邸に本陣を置きます。対する山名宗全五辻通大宮東の自邸に本陣を置きました。以後、細川方を東軍、山名方を西軍と呼称します。東軍は大将の細川右京大夫勝元を筆頭に斯波左兵衛佐義敏、畠山政長吉良義真、吉良義富、赤松政則、山名是豊、佐々木正観、武田信賢、富樫鶴童丸他総勢161500余騎、西軍は山名右衛門督持豊入道宗全を大将に宮田教実、宮内豊之、吉良義勝、斯波治部大輔義廉、畠山右衛門佐義就、一色義直、吉良義直、仁木教将、土岐成頼ら総勢116000余騎で28万人近い兵が京都に集結した事になります。その数字の信憑性はともかくそれでも10万人ほどの兵が入京してきたはずでこれだけの大軍が京都に入って来るのは初めての事だったでしょう。

1467年5月26日、東軍による西軍本陣への攻撃が開始されました。ついに全面的武力衝突となったのです。保元の乱でもそうだったように市街戦では火矢が使用される傾向にあるようで足軽による放火も相まって百万遍地域や行願寺、成菩提寺、冷泉中納言邸といった多くの屋敷や地域が兵火によって次々と焼失していきました。戦闘は二日間に及び上京一帯は焦土と化してしまいました。辺りは死者が散乱して辛うじて生きている者も小規模な戦闘が各所で続発していては回収する余裕などありませんでした。そのため動けない負傷者は放置するしかなくその発するうめき声はまさにこの世の地獄を演出していた事でしょう。しかし、この世の地獄はまだ始まったばかりだったのです。

28日、将軍義政は東西両軍に停船命令を出します。前回は畠山政長と義就の当人同士で決着をつけろと無責任な対応をしていた将軍でしたが、それぞれに与する大名が京都を戦火に陥れた状況を見てさすがに慌てた事でしょう。開幕以来の大乱に不安になったのか義政はこの頃に伊勢貞親を復帰させています。かつて弟の足利義視を讒言して切腹を命じた貞親を復帰させるのだから相当に困っていたのでしょう。しかし、後の水野越前守がそうだったように一度失脚した者は復帰してもかつての権勢を取り戻す事はできず貞親もあまり大した活躍はしませんでした。却って貞親の復帰に義視が兄に不信感を抱いてしまう結果を招いただけでした。

さて、この停戦命令は両軍に対して出されたものでこの時点では将軍は中立的な立場でした。しかし、それが仇となったのか将軍は以後の行動を勝元に掣肘されてしまって東軍寄りの立場を取るようになりました。将軍を手中にした強みがここで発揮されます。6月1日、勝元は将軍に牙旗を下すよう要請します。牙旗とは昔の中国で大将の旗に象の牙を飾っていた故事に因んだ名称でそれが立てられるという事は天子の軍隊この場合は幕府の正規軍である事を表明するものでした。これに将軍の義兄である日野勝光が反対します。牙旗は謀反人を討伐するときに授けるもので私戦はそれに該当しないと言うのです。これに勝元は激怒して勝光邸を焼きはらおうとしたそうです。冷静なイメージのある勝元ですがかつてない大乱に気持ちが昂ぶっていたのでしょうか。肝心の牙旗は所在が不明だったので3日に義政は新しく作らせて8日に室町殿の四足門に立てられました。さらに7月には斯波義廉に代わって勝元が管領に任じられました。これにより東軍は官軍となり西軍は賊軍となりました。この事実は実際に将軍が義視に西軍討伐を命じると同時に西軍諸将に帰参を呼びかけた事もあって西軍に参加した大名に相当なプレッシャーをかけたようで斯波義廉土岐成頼六角高頼は自邸に引き篭もったそうです。

追い詰められてしまった宗全は東軍との正面衝突は避けて足軽を使ったゲリラ戦で時間を稼ぐ作戦に出ました。この当時は騎馬武者も戦闘時には下馬して徒歩で戦います。京都という市街地での戦闘がそうさせているのですが、こうした市街地での戦闘に足軽は有効でした。公家や僧侶からしたら自邸や寺に押し寄せて強盗を働き挙句には放火して去っていく足軽は相当に憎い存在で足軽を忌み嫌う記述の日記は多いです。後に一条兼良が9代将軍義尚に足軽の禁止を要望しますが将軍をもってしてもそれは叶いません。時代の流れというものです。そうして時間を稼いでいる間に宗全は領国から根こそぎ動員した3万の兵を丹波に集結させておりそれらが京都に向かいつつありました。そして、西国の大大名大内政広から大軍を率いて上洛するとの約束を取り付けており逆転は可能だと確信していました。空前の大乱はまだ始まったばかりでした。