古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱⑦御霊合戦

文正の政変で伊勢貞親を放逐した事によって共通の敵を失った山名派と細川派の対立は深刻化していきました。すでに畠山家と斯波家で内紛が勃発している以上、平和裏に解決するのは不可能でした。唯一、可能性があるとしたら将軍義政による調停で実際に戦端が開かれると事態の収拾に動きますが伊勢貞親という右腕を失った将軍にはもうどうする事はできずあろうことか当事者同士で決着を着けてしまえと匙を投げてしまいました。将軍専制を目指して政治を操ろうとあれこれ画策してきた義政でしたがここに至って制御不能だという事に気付いたのでした。そもそも、問題の発端が将軍の無責任な対応にあるのだから調停がうまくいかなかったのも道理です。

1466年12月25日、畠山義就が軍勢を率いて上洛して千本釈迦堂に陣を敷きました。山名宗全の指示によるものでした。年が変わって5日には将軍に謁見し畠山家の家督が事実上安堵されました。寝耳に水なのはライバルの政長と後ろ盾の細川勝元でしょう。ついこないだまで政長は管領として元日の将軍家年賀の宴席を取り仕切ったばかりでした。しかし、その翌日に予定されていた将軍の政長邸への御成は中止され政長には出仕停止が命じられました。さらに、追い打ちとして義就が将軍に謁見を許されたという情報が入ってきます。義就が赦免されたという事は自身の失脚を意味します。政長には管領職からの罷免と万里小路の屋敷を義就に譲渡せよとの命令が伝えられます。政長の後任の管領には山名派の斯波義廉が就任しました。山名派はクーデターによる政権獲得に打って出たのです。

事態の急変に勝元は義政に義就追討を直談判しようとしますがすでに将軍は山名派の手中にありました。翌16日には政長が足利義視を擁立しようとしますがこれも山名派に阻止されました。追い詰められた政長は戦いを決意します。執事の神保宗左衛門は屋敷で戦うのは防御の面で不利だから上御霊社に布陣して細川勝元の来援を待つべしと進言します。献策を受け入れた政長は6000余の兵を率いて屋敷に火を放って上御霊社に移動すると周辺の放火を命じます。これは京都の町が平坦で要害となりうるのは寺社の堂宇や広大な公家屋敷に限定されていたからです。敵の陣所になりそうな場所を事前に潰しておく戦術でした。開始早々にして京都は灰燼に帰す事が確定したようなものです。

政長挙兵すの報に宗全は後花園上皇後土御門天皇を花の御所に迎え入れます。朝廷が細川派の手に落ちないようにするための処置でした。一方で義就は千本釈迦堂から出陣して山名派の軍勢と合流して上御霊社に押し寄せて大軍でもって政長軍を包囲しました。ちょっとここで畠山家の内紛についておさらいしておきます。義就は畠山持国の長男ですが生まれるのが遅かったために父の持国は弟を後継者とします。しかし、実子の義就が生まれたために弟を廃嫡したのでした。これに一部の家臣が反発、失意のうちに没した弟の子さらにその弟の政長を擁立して持国・義就父子に反抗します。その裏にはライバルの失脚の好機と見た勝元と宗全の画策がありました。当初は将軍の支持を得ていた義就が優勢でしたが、大和での勝手な振る舞いが将軍の逆鱗に触れて追放されてしまいます。義就は大和の国人古市澄胤あるいは朝倉孝景を介して斯波義廉と提携を図り義廉の後ろにいる宗全を頼って巻き返しの機会を待っていたのでした。宗全もかつては敵でしたが政長の後ろに勝元がいる以上他に頼れる人間はいませんでした。

上御霊社は周りを鬱蒼とした木々に覆われ南は相国寺の大堀、西は細川の要害となっていたので攻めるとしたら北と東からでした。幕府軍の先陣は遊佐河内守で馬から降りて向かっていきます。他の兵もこれに続きますが、放火による煙とこの日は雪でしかも寒さのためにみぞれ雪となって兵たちの顔を容赦なく叩きつけた事で進撃が鈍ってしまいます。そこを政長方の竹田与ニにつけ込まれて矢の一斉射撃で600人の損害を出して潰走しました。続いて朝倉孝景が前に出ますがこれも攻めあぐねていたずらに損害を増すばかりでした。結局これも山名政豊に交替するしかなくその山名勢も政長方の防壁を崩す事はできませんでした。そうこうしているうちに日没となったのでこの日の戦闘は終了しました。

緒戦は政長方の勝利となりましたがいずれ敗北するのは目に見えてました。政長は勝元に援軍を請う使者を走らせます。しかし、勝元は事前に斎藤親基から政長を助けるなという将軍からの命令を伝えられていました。宗全の差し金である事は言うまでもありません。勝元は追い込まれました。もし、政長を見捨てたら他の守護大名からの信頼は消え失せて彼の威信は失墜します。かといって政長を助ける事は将軍への叛意を表明したも同然です。もっとも、この命令は義政の本意ではなく斎藤はこっそりと政長を助けるようにとの将軍の密命を伝えています。とはいえ将軍と天皇が山名方の手にあっては自分に武運は無いと勝元は使者に鏑矢を一本渡します。いまは助ける事ができないからなんとか脱出してくれという意味です。そこで政長は敵の遺体を拝殿に積み上げて建物に放火しました。すぐに幕府軍が押し寄せてきて多数の焼死体を確認します。義就は政長が負けを認めて自害したのだろうと判断します。政長が終日拝殿で指揮を執っていたからでした。

細川の 水無瀬を知らで 頼みきて 畠山田は 焼けそ失ぬる

戦いの後に洛中に舞った落首です。見捨てた事で政長を焼死体としてしまった勝元への世間からの批判でした。これにより勝元は失脚します。勝利した山名方の大名は連日酒宴に明け暮れ田楽や猿楽を堪能したそうです。3月3日の節句では宗全を筆頭に斯波義廉畠山義就、一色左京大夫土岐成頼、佐々木高頼らが将軍邸に挨拶に出向いた後に義視邸へ近かったので駕籠を使わず徒歩で向かったのですが、皆が金襴緞子の衣装に身を包んで太刀は金銀珠玉で装飾されるなどまるで中国の古典から富人が飛び出てきたようだと人々を驚嘆させました。まさに我が世の春を謳歌している図ですが、彼らが浮かれている間にも細川勝元は反撃の準備を着々と進めていたのでした。