古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱②細川勝元(1430〜1473)と山名宗全(1404〜1473)

細川勝元は持之の嫡男として生まれました。幼名は聡明丸。13歳で家督を継いで将軍義勝から一字を賜って勝元と名乗りました。少し早ければ教元に遅ければ政元になってたんでしょうね。13歳なので叔父さんが後見しました。16歳で管領に就任して以後辞任と就任を繰り返します。管領というのは段々と形骸していって必要な時にだけ就任して用が済んだらさっさと辞任してしまうだけの役職になっていきますがこの時点ではまだ交代で管領になっていました。

細川氏は足利氏の一族だったんですが鎌倉時代は零細な御家人で足利氏の家臣も同然の存在でした。南北朝時代に活躍したのが飛躍のきっかけでした。以後は管領を務める家柄の一つとして幕府内で重きをなし同族連合体という形で一族の結束を高める事で他の土岐、山名、大内、斯波、赤松、畠山といった有力守護が将軍の介入や干渉を受けてきたのに細川家はそれらを跳ね除け応仁の乱後も勢力を保つ事に成功しました。将軍は有力守護の内訌を利用して介入してくるのが常套手段なので一族が仲良しというのは大事な事でした。宗家は京兆家といって通字は『元』と『之』でした。

 

山名宗全は時熙の三男として生まれました。10歳で元服して将軍義持から一字を賜って持豊と名乗りました。持豊にはお兄さんが二人いて長兄は親よりも先に死んだので持豊はお父さんから後継者に指名されました。しかし、将軍義教は側近だった次兄を後継者にするようにとの意向を示します。結局は次兄が将軍の怒りを買ってしまったために持豊が家督を相続しました。次兄は挙兵して持豊に挑みましたが返り討ちにあって殺害されました。

こうした経緯から持豊は権威に阿らない傲慢な性格になったようで、応仁の乱の最中にとある大臣邸を訪問した時に大臣が戦乱で人々が苦しんでいると過去の例を挙げて持豊を諌めると「あなたは先例と言うが先例など建武の新政以来崩れ去っているではないか。なんでも過去の事例を取り上げるな。これからは『例』を『時』に置き換えるべきだ。先例が役立たない証拠に私のような匹夫があなたみたいな大臣と同輩のように話をしているだろ。そんなことは過去の事例になかったはずだ。つまり例とはいまこの時が例なのだ。すべては時勢なのだ。あなたが私の言っている事を理解してくれるなら私があなたを養ってあげますよ」と言い捨てて大臣を閉口させています。

山名氏は新田氏の一族ですが宗家よりも先に源頼朝に従った功績で鎌倉殿の一門である門葉に列しました。新田一族では唯一の勝ち組と言えるでしょう。そのためか南北朝の争乱では母方の従姉妹の子である足利尊氏に従い、観応の擾乱では足利直義に従って南朝方になって京都を何度か占領するなど武威を示しました。その後、再び幕府に帰順して侍所の長官を務める四職の一つになり11ヶ国を支配する六分一殿と呼ばれる大勢力となりました。しかし、そのせいで幕府に警戒され内訌を利用した将軍義満によって討伐されました(明徳の乱1391)。

義満によって衰退・分裂した山名一族の復興に力を注いだのが持豊の父である時熙です。時熙は応永の乱(1399)で奮闘するなど没落しかけていた山名氏を復活させようと努力しその意志は持豊に受け継がれました。持豊は将軍義教が『犬死』にした嘉吉の乱(1441)で赤松氏を討伐しその功で播磨守護職を手にしました。これにより山名氏は一族合わせて10ヶ国の守護職を手にしてかつての勢力を取り戻すことに成功しました。しかし、播磨領有の経緯から赤松氏の恨みを買うことになり、播磨領有が持豊死後の没落への端緒ともなったと言えるでしょう。出家したのは乱の翌年で当初は宗峯、後に宗全と改めました。宗全は戦に強かった一方で赤ら顔で巨漢だったともされ先述したように傲慢な性格だったことから『赤入道』と畏怖されました。かの一休さん毘沙門天の化身と評したそうです。

 

応仁の乱で対決したから細川勝元山名宗全は元から仲が悪かったと思われるかもしれませんが二人は最初は提携してました。畠山持国伊勢貞親そして将軍義政といった共通の敵に対しては手を組んでいたのです。勝元は宗全の養女を娶りさらに子供を養嗣子に迎えています。宗全が義政に討伐されかけた時は勝元が庇って隠居させる事で済ませました。しかし、両雄並び立たずで政治情勢が混沌していくなかでやがて二人の間に亀裂が生じていくのでした。

 

次回は、応仁の乱勃発の諸々の元凶、諸悪の根源である将軍足利義政を取り上げたいと思います。