古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

守護大名と戦国大名

大名とは大きい名主という意味で武家社会では大きい所領と多くの家来を持った領主を指します。対してちっちゃい土地しかない領主を小名と言います。その定義は曖昧で江戸時代は一万石以上の領主を大名としていましたが武家諸法度には五万石以下の小名という記述もあり小大名を小名とする例もありました。

戦国大名とは全国に割拠して覇を競った比較的大きな所領を持った武将たちの事ですが何をもって戦国大名と言うのでしょう。とくに守護大名から転身した人は何をもって転身したと言えるのでしょうか。

ここで守護大名について説明します。鎌倉時代に軍事・警察権しか行使できなかった守護が南北朝の争乱で刈田狼藉の検断権、使節遵行権、半済令による年貢の半分を徴収する権利を与えられ地元の武士への支配力を高めていったのが守護大名です。

検断だの遵行だの言われてもわからないと思いますので説明します。刈田狼藉とは当時の重層的な土地支配で自分の権利を示すために作物を刈り取る実力行使で鎌倉時代以降に多発したため狼藉とされました。検断とはそれを裁くという事で鎌倉時代は侍所や六波羅探題検断方の指示で守護が行使していたのを南北朝の争乱で守護の権限とされました。使節遵行権とは幕府の命令を強制執行する権限でどういう事かと言うと当時は所領争いの訴訟で必ずしも幕府の裁定に当事者が従っていたわけではなかったので使者を現地に派遣して裁定を執行したわけです。そして半済令による年貢の半分を徴収とは荘園領主などに収められる年貢の半分を徴収できる権利で、これらの権限を与えられた事により守護は国内の武士の被官化つまり家臣化を進め荘園への侵食を促進していったのです。鎌倉時代とは権限が大きくなったために守護大名と呼ばれたのです。

しかしながら守護がすべて守護大名になれたわけではありませんでした。任国内の地元武士の被官化に失敗したりそれどころか抵抗にあって任地に到着できないといった事例もありました。また地元の武士つまり国人領主の中には幕府と直接的な主従関係を結ぶ者もいました。こうする事で守護の介入を阻止しようとしたのです。また幕府は公家や寺社の領地に守護不入権を認めて守護の介入を禁じたりもしました。

そうした制約はあったものの鎌倉時代と違って任国内の武士の家臣化が容易になった事には違いなくまた経済力もつくようになった事で守護大名の中には幕府が脅威を覚えるまでに勢力を拡大させた者もいました。反対に将軍の土地は南朝方に奪われたり自軍への恩賞にされてしまったりで財政基盤は大きくありませんでした。そういった事情で足利幕府は守護大名の連合政権の体をなすようになりました。

将軍としてはその状況は好ましくなく歴代の将軍の中には有力な守護大名に掣肘を加える人もいました。しかし、六代目の義教が嘉吉の乱で殺害されて以降は将軍親裁を目指した人はいたものの追放されたり最悪の場合殺されたりもして将軍の権威は失墜してしまいました。だから戦国乱世の時代になったんですが。

将軍権威の失墜は守護の没落を招きました。どんなに強大な守護大名であっても守護職というものが将軍から任命されるものである以上はその権力を保証するのは幕府の安泰に他ならず事実大乱で幕府が混乱状態に陥ると地方では下克上による守護の没落が始まったのです。こうして守護大名に取って代わったのが戦国大名ですが冒頭に記したように守護大名から戦国大名になった人もいました。彼らは幕府の力を借りずに領国経営ができるようになって戦国大名となったのです。

幕府の力を借りずにというのは別に幕府からその国の守護に任命されずとも国内の武士を統率できるという事です。また寺社などが幕府から認められた守護不入権も否定して場合によっては自分の名で与え直すことでそれらも支配下に置いていきました。駿河今川氏のように分国法でそれを規定するのですが、この分国法を幕府にはかることなく発布できたら戦国大名だというのが一つの定義となっています。

しかし、それで将軍の存在が無価値になったわけではありません。守護大名と違って戦国大名は幕府に依存しなくても領国経営が可能ですがその領国を維持発展していくには幕府の権威は十分に利用価値があったのです。つまり幕府の存在は戦国大名にとって絶対的なものではないもののその権威はライバルとの争いで利用できるものということです。例えば武田信玄信濃守護職に任命されていますが、これによって武田家に国を逐われた信濃の領主の帰還支援という名目で信濃に侵入する上杉謙信大義名分で優位になるからです。

このように利用価値がまだあることによって足利将軍家は辛うじて存在することができたのですがそれについては別の機会にしたいと思います。