古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

上皇①

今年は天皇が退位されて上皇になられるそうなので今回は上皇について語りたいと思います。

上皇と言えば院政ですが、上皇になった人がすべて院政していたわけではありません。天皇を引退したら上皇なのでその全員が院政してたら混乱しちゃいますよね。なぜ院政と言うか、それは上皇が院と呼ばれていたからです。

上皇太上天皇の事でこれは中国の太上皇から来ています。最初に譲位したのは皇極天皇(中大兄王のお母さん)ですが当時はまだ天皇という称号も無かったので当然上皇とは呼ばれませんでした。初めて上皇という名がついたのは持統天皇(天智天皇の娘さん)です。因みに上皇が出家したら太上法皇つまり法皇となり最初にこの称号を用いたのは宇多天皇です。

どうして天皇を辞めて上皇になるかと言うと理由はいくつかあります。一つは病気で死期が迫っている時に天皇のまま崩御するのを回避するために譲位するというものです。当時は死の穢れを忌避する風習がありました。当然それらの上皇は間も無く死去するため上皇としての活動はありません。他にも自分の息子を天皇にするためという理由もあります。白河天皇は先帝の遺言で次の天皇は弟にとされていましたが、その弟が病死するとその時はそのまた弟が次の天皇という遺言を無視して息子に譲位しました。

白河上皇以降は上皇天皇を後見して政務を執る院政が定着します。院政を敷いた上皇天皇を指名する権限を持ち『治天の君』と呼ばれました。後鳥羽院政までは権勢を誇っていましたが承久の乱で失墜します。それでも朝廷内では最後まで影響力を保っていました。どうして天皇を引退するかと言うと、天皇のままだったら朝廷内の枠組みの中で行動が何かと制限されるからです。隠居の身だったらそうした煩わしさから解放され好きに旅行にも行けたりします。

さて天皇は引退すると上皇になると先述しましたが例外があります。それは廃帝です。権力抗争や戦争で上皇にならずに廃帝とされたのです。淳仁天皇(藤原仲麻呂の乱)、安徳天皇(治承・寿永の乱)、仲恭天皇(承久の乱)で長らく歴代天皇からも名が外されてました。淳仁天皇仲恭天皇は明治になって尊号が与えられました。他にも南北朝の争乱で相手を廃帝と見做したり上皇とは認めないといった事例があります。

他の例外として天皇じゃないのに上皇になった事例もあります。一つの例としてかの松平定信失脚の遠因となった尊号一件を挙げます。

第119代の光格天皇は後桃園天皇の養子となって即位しましたが、当時は禁中並公家諸法度の規定で親王摂関家よりも格下とされていました。通常であれば天皇の実父は存命であれば上皇ですが光格天皇の場合は実父は天皇に即位していない閑院宮典仁親王なのでこのままでは天皇の実父が摂関家よりも序列が下になってしまいます。これに不満を抱いた天皇は法改正が不可能ならばせめて父に上皇の尊号を贈りたいと幕府に要望しました。

これに強硬に反対したのが老中・松平定信でした。天皇は尊号宣下を強行すると宣言するなど朝幕間で緊張は高まりましたが、結局は天皇が折れて親王に加増するなどの待遇改善を幕府が約束したことで断念しました。典仁親王は生前に上皇にはなれませんでしたが明治になって明治天皇の高祖父にあたるということで慶光天皇太上天皇諡号と称号を贈られました。余談ながら松平定信は同じ頃に将軍・徳川家斉が実父の治済に大御所の称号を贈ろうとしたのにも治済が将軍になっていないとして反対しました。天皇の要望を拒絶した手前将軍の願いをも拒絶せざるを得ない立場になってしまったわけですがこれによって将軍の不興を買った松平定信は失脚してしまいました。因みに光格天皇は生前に上皇になった最後の例で典仁親王は死後に上皇追号されたこれまた最後の例です。

上記は死後に上皇とされた例ですが当然生前に天皇に即位した事実もなしに上皇となった例もあります。その一つが守貞親王で同母弟の後鳥羽上皇承久の乱で失脚するとその後裔による皇位継承を認めない方針の鎌倉幕府によって息子の後堀河天皇が即位した事によって治天の君として上皇の尊号を与えられました。これは天皇に即位していない者が上皇となった最初の例で異例の事でしたが後鳥羽上皇の子孫がことごとく配流・出家・臣籍降下してしまっては他に該当者がいなかったための処置でした。

それでは続きはまた。