古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

2019-04-01から1ヶ月間の記事一覧

応仁の乱⑦御霊合戦

文正の政変で伊勢貞親を放逐した事によって共通の敵を失った山名派と細川派の対立は深刻化していきました。すでに畠山家と斯波家で内紛が勃発している以上、平和裏に解決するのは不可能でした。唯一、可能性があるとしたら将軍義政による調停で実際に戦端が…

応仁の乱⑥文正の政変

将軍義政には深刻な悩みがありました。結婚して10年が経つのに未だに男子に恵まれなかったのです。そこで義政は一計を案じます。弟で出家の義尋を還俗させて後継者にする事です。当初は固辞していたという義視ですが、再三の要請についに承諾しました。勝手…

応仁の乱⑤斯波氏の内紛

斯波氏は足利尾張守家が前身で幕府の創業の功臣である足利高経の四男斯波義将が執事に任じられ高経が後見するという形で細川氏と斯波氏が管領に就任する体制ができました。後で畠山氏が加わって三管領となります。 執事の義将をなぜ高経が後見するかと言うと…

応仁の乱④金吾家→総州家vs尾州家

畠山氏は足利義純が畠山重忠の未亡人と結婚した事で平姓から源姓に移行しました。名門畠山氏の名跡を継いだという事で斯波氏に次ぐ待遇を足利宗家より受けます。嫡流は観応の擾乱で奥州に追いやられ二本松氏として零落し、庶流が取って代わって管領となりま…

応仁の乱③将軍義政

足利義政は将軍義教の五男として生まれました(1436)。幼名は三春。兄の義勝が病死した事で8歳で足利家の家督を継ぎました。1446年に後花園天皇の命名で義成と名乗りました。将軍になったのは3年後で前将軍の死から6年が過ぎての就任でした。義政と名乗ったの…