古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱④金吾家→総州家vs尾州家

畠山氏は足利義純畠山重忠の未亡人と結婚した事で平姓から源姓に移行しました。名門畠山氏の名跡を継いだという事で斯波氏に次ぐ待遇を足利宗家より受けます。嫡流観応の擾乱で奥州に追いやられ二本松氏として零落し、庶流が取って代わって管領となります。これが新しい嫡流の金吾家です。畠山氏の管領就任によって三管領が成立しました。

前回、畠山持国の後継を巡る内紛をちょこっと触れましたがもう少し詳述します。持国は老練な政治家で細川勝元山名宗全が提携していたのも彼に対抗するためでした。その持国には後を継ぐ男子がいませんでした。そこで弟を後継者に指名したのですがその後に実子の義就が生まれてしまいました。持国は弟の後継指名を取り消して義就を次期家督としたわけですがその決定に家臣の中から反発する者が現れました。この混乱で将軍義政の支持を受けるために尾張守護代問題で将軍の意向に従う姿勢を見せたわけです。それはさておき、持国は失意のうちに亡くなった弟の子義富の擁立を画策した神保次郎左衛門らを成敗しますが、肝心の義富は細川勝元が匿ってしまいました。義富派の被官人も山名宗全に保護されました。数ヶ月後には義富派が反撃して持国邸を攻撃して持国を隠居に追い込みます。さらに勝元は義政に働きかけて義富の家督継承を認めさせました。

これが混乱の始まりでした。持国・義就父子を支持していた義政は義就を伊賀に匿っていて、わずか数ヶ月後に今度は義富が没落したのです。それでこのまま義就が畠山家の惣領に落ち着けばよかったんですが翌年に大和に逃げた義富を討伐に向かったあたりから将軍との関係が微妙になっていきました。2年後の1457年に大和の多武峰の衆徒と中村里の間で境争論があった際に義就が勝手に将軍の上意だと偽って事態の収拾を図ったと知った義政は激怒して義就の知行の一部を召し上げてしまいました。さらに大和の衆徒らに義就の被官人らの治罰の奉書を与えており、義政は義就を見限るようになりました。追い打ちをかけるように二年後には義富の復権が決定、二ヶ月後に死去するものの弟の政長が擁立されます。義就と政長は四年に渡り交戦しますが治罰の綸旨と旗が下された義就の不利は決定的で吉野に落ち延びていきました。

義就の敗因は将軍の不興を買った事、支援者の今参局が失脚した事、隠居していた山名宗全復権して細川勝元と共に義富や政長を支援した事などが挙げられますが畠山氏の内紛はこれで収まったわけではなく、名将の誉れ高い義就はその後もしぶとく戦い続け大和だけでなく河内や紀伊にまで勢力を拡大し討伐に来た管領の政長を破る強さを見せつけます。それでも義就は賊将にすぎませんでしたが細川勝元山名宗全が対立した事で義就そして政長の運命も二転三転していくのでした。

畠山氏は基国の代で初めて管領に就任し、満家は大内義弘を討ち取るも将軍義満に疎まれ一時失脚、義持の代で復権して義持死後の将軍選抜を籤引きに決定して結果的に義教の恐怖政治を招きます。ただし、満家存命中は義教の権力も抑制されていました。持国は義教に疎まれて弟に家督を譲らされますが嘉吉の変後に弟を殺害して復帰、義教に家督を追われた者の復帰を支援して自身の勢力拡大を図るも細川氏との対立を招き各地で大名の家督争いを誘発させます。最後は自身の家でも家督争いを招き、畠山氏嫡流を分裂させてしまいました。持国より後については後日にしたいと思います。

次回は斯波氏の内紛“武衛騒動”です。