古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

応仁の乱①

昔は戦国時代がいつから始まったかと言ったら応仁の乱とされていました。この乱で秩序が崩壊して乱世の時代が到来したと。かなり有名な乱で名前くらいなら知っている人も多いでしょうがその詳細を知っている人は少ないと思います。将軍家と管領家の内紛と実力者同士の権力争いが絡まって乱が勃発し途中で双方の大将が死んだけど乱は続いて結局10年以上という大乱となった、京都は焼け野原となり戦火は地方に拡大して戦国時代を招来した、一般的に知られているのはこの程度でしょうか。この乱がどのようにして終息したか知らない人は多いじゃないでしょうか。今回は応仁の乱について説明したいと思います。

かつては戦国時代の始まりというのが定説だった応仁の乱。小生が現役(学生時代)の頃は守護たちが京都で戦争している間に国元では守護代などが力をつけてきてやがては守護を倒していったと教えられていました。確かにその通りなのですが、守護たちが国を留守にしていたわずか10年ほどでその家来たちが主君を凌駕する力をつけていったのでしょうか。

実は足利幕府が真に安定していたと言えたのは3代目義満の晩年から次の義持の前半のわずか30年ほどでしかありませんでした。江戸時代と違って室町時代中央政府による地方の統制は行き届かない面が多く例えば応永の乱(1399)で屈服させた大内氏の生き残りである盛見と弘茂の家督争いで幕府に恭順した弘茂を支援したにも関わらず敗死させてしまい、その上に盛見を帰順させるために弘茂に与えていた長門と周防の他に豊前筑前守護職まで与えています。これによって没落仕掛けていた大内氏は盛り返して西国最大の大名にまで成長しました。幕府に刃向かった武家が大勢力に返り咲くなんて鎌倉幕府にも江戸幕府にも無かった事です。江戸時代の将軍と違って足利将軍が専制政治をしようとすると守護たちを抑圧するという手段しかありませんでした。義満は明徳の乱(1391)や応永の乱などで有力守護を撃破して将軍の武威を知らしめることで親政を強化しました。6代目の義教も同様にやろうとしたのですが過剰にしすぎたために殺害されました。以後、幼少の将軍が相次いだために将軍権力は低下しその後の歴代将軍の努力も虚しく将軍が実権を掌握することはありませんでした。

将軍権力が弱体なのと同様に守護の権力も絶対的ではありませんでした。原因は守護に在京義務が課せられていた事です。京都で将軍を支えるという職務のために国元での実務は守護代に一任していました。守護代の権限は守護とほとんど変わりませんから守護代の力が増していくのは自然の流れでしょう。将軍権力の弱体化がそれに拍車をかけます。守護の任免は将軍の専権事項だったのですが、それが地元の武士たちの同意を必要とするようになってきたのです。例えば赤松氏は加賀半国の守護に任命されましたが地元武士の抵抗にあって御国入りすら困難でした。当然統治も難航して結局は手放しました。

守護職世襲していた家も守護代の声望が守護を上回るようになりました。斯波氏の甲斐氏、赤松氏の浦上氏、土岐氏の斎藤氏などです。これらの守護代は守護が幼少だったり或いは能力的に問題あったりした場合に幕府から意見を求められたりもしました。応仁の乱が始まる前から守護代などの重臣層が主君を凌駕しつつあったのです。つまり応仁の乱があったから下剋上や争乱が頻発した乱世が到来したのではなくて、それ以前から徐々に乱世に向かいつつあったという事です。

次回は東西両軍の総大将、細川右京大夫と山名右衛門督について解説したいと思います。

※( )の数字は西暦です。