古今東西戦史研究室

洋の東西を問わず(と言いたいけど日本関連が多い)古今(あと未来もつまりガンダムね)の戦史(ミリタリー関連も)や日本史を研究しています。あくまで独断と偏見なのでご了承願います。あと日常で思った事も掲載します。

上皇②

今回新たに特例として設けられた上皇の称号ですが、政府はその英語表記に頭を悩ませたそうです。というのもただ引退した君主なら『Retired Emperor』になるんですが、それではご隠居という意味になってしまいます。実質ご隠居なんですが日本の場合は天皇という存在はただの君主というのを超越しているため中々厄介な問題となっています。結果的に『Emperor Emeritus』で落着したようですが、これは名誉天皇という意味でローマ教皇が引退した際にも名誉という言葉がつきました。権威を損なわないための苦肉の策といったところですか。

どうしてこうこじれた事になるかと言うと日本の上皇という制度は独特なんですね。君主が引退しても権力を掌握しているというのは世界ではほとんど例がありません。ほとんどの世襲君主制国家では君主というのは終身で引退しても権力を手放すのが原則でした。そうしないと二重権威で内紛の原因になりかねないからです。日本でも例えば後白河上皇二条天皇の間で権力抗争が起きていました。

さて、西洋では君主が引退すると新たに爵位をもらう、即位前の王子や王女を名乗るなどしますが、かつての中国では引退した皇帝は太上皇と呼ばれました。これは日本の太上天皇の語源になりましたがごくわずかな例外を除いて権力は次代の皇帝に移譲しました。

ところで天皇は英語でemperorですが、これは日本の天皇を『王』ではなく『皇帝』と捉えているわけです。同じ君主号ですが、kingとemperorと分けられていることから当然王と皇帝は意味が違ってきます。君主に対する外交上の待遇は王よりも皇帝が格上となります。つまり形式上とはいえ現代の世界においてもっとも格が上なのは現存する唯一の皇帝である天皇という事になります。よってイギリスの王位継承候補筆頭を皇太子などと呼ぶのは間違いでそういう場合は王太子と呼ぶのが正しいと言えます。

上皇から離れてしまいますが皇帝について説明したいと思います。王も皇帝も同じ世襲制の君主じゃないの?と思われるでしょうが王が選挙王政を採用していた国を除いて断絶しない限り世襲制だったのに対し皇帝は西洋においては必ずしもそうではありませんでした。

エンペラーの語源となったのは古代ローマインペラトルですが、そもそもこれは皇帝を指す言葉ではなく軍事指揮権を持つ最高司令官の称号でした。またドイツのカイザーやロシアのツァーリの語源となったカエサルの称号も元々は皇帝を意味するものではなくユリウス・カエサルの正当な後継者という意味でした。そもそも帝政ローマ初期において皇帝という一つの地位があったわけではなく初代ローマ皇帝となったオクタウィアヌスが自身に様々な役職や名誉を集中させただけでした。養父のカエサル暗殺を教訓としたオクタウィアヌスはいったん自分が持っていた権限を元老院に返還してその見返りに様々な特権を授与されることで王という世襲君主が誕生したわけではないとアピールしたのです。

現在では帝政ローマ最初の皇帝とされるオクタウィアヌスですが当時のローマは建前上はまだ共和制で皇帝という地位も存在しませんでした。オクタウィアヌスはライバルを倒して実力で最高権力者となったのですが以後のローマにおいても例えば3世紀の軍人皇帝時代のように実力で皇帝の座を争う事態も起こりました。これが血縁が重視されていた王との違いです。ナポレオンが王ではなく皇帝となったのも大革命の後で王と名乗るのは憚れたのもあるでしょうが、イタリア貴族の流れをくむと言ってもどの国の王族とも血縁にないナポレオンが王になる余地が無かったからです。ナポレオンは戴冠式教皇から冠を取り上げて自分で自分の頭にかぶせるという演出をしますがこれも実力で勝ち取る皇帝という地位の特質性を表していると言えるでしょう。とはいえ既に帝位の継承も血統でなされるのが常態化していたのでナポレオンは欧州の君主クラブへの仲間入りを望んでいましたが他の王や皇帝からしたら笑止千万だったでしょう。

最後に天皇がemperorと初めて訳されたのは江戸時代でその時は将軍もemperorと訳されていました。当時の日本は聖性と世俗の二つのemperorがいたと思われていたのです。

上皇①

今年は天皇が退位されて上皇になられるそうなので今回は上皇について語りたいと思います。

上皇と言えば院政ですが、上皇になった人がすべて院政していたわけではありません。天皇を引退したら上皇なのでその全員が院政してたら混乱しちゃいますよね。なぜ院政と言うか、それは上皇が院と呼ばれていたからです。

上皇太上天皇の事でこれは中国の太上皇から来ています。最初に譲位したのは皇極天皇(中大兄王のお母さん)ですが当時はまだ天皇という称号も無かったので当然上皇とは呼ばれませんでした。初めて上皇という名がついたのは持統天皇(天智天皇の娘さん)です。因みに上皇が出家したら太上法皇つまり法皇となり最初にこの称号を用いたのは宇多天皇です。

どうして天皇を辞めて上皇になるかと言うと理由はいくつかあります。一つは病気で死期が迫っている時に天皇のまま崩御するのを回避するために譲位するというものです。当時は死の穢れを忌避する風習がありました。当然それらの上皇は間も無く死去するため上皇としての活動はありません。他にも自分の息子を天皇にするためという理由もあります。白河天皇は先帝の遺言で次の天皇は弟にとされていましたが、その弟が病死するとその時はそのまた弟が次の天皇という遺言を無視して息子に譲位しました。

白河上皇以降は上皇天皇を後見して政務を執る院政が定着します。院政を敷いた上皇天皇を指名する権限を持ち『治天の君』と呼ばれました。後鳥羽院政までは権勢を誇っていましたが承久の乱で失墜します。それでも朝廷内では最後まで影響力を保っていました。どうして天皇を引退するかと言うと、天皇のままだったら朝廷内の枠組みの中で行動が何かと制限されるからです。隠居の身だったらそうした煩わしさから解放され好きに旅行にも行けたりします。

さて天皇は引退すると上皇になると先述しましたが例外があります。それは廃帝です。権力抗争や戦争で上皇にならずに廃帝とされたのです。淳仁天皇(藤原仲麻呂の乱)、安徳天皇(治承・寿永の乱)、仲恭天皇(承久の乱)で長らく歴代天皇からも名が外されてました。淳仁天皇仲恭天皇は明治になって尊号が与えられました。他にも南北朝の争乱で相手を廃帝と見做したり上皇とは認めないといった事例があります。

他の例外として天皇じゃないのに上皇になった事例もあります。一つの例としてかの松平定信失脚の遠因となった尊号一件を挙げます。

第119代の光格天皇は後桃園天皇の養子となって即位しましたが、当時は禁中並公家諸法度の規定で親王摂関家よりも格下とされていました。通常であれば天皇の実父は存命であれば上皇ですが光格天皇の場合は実父は天皇に即位していない閑院宮典仁親王なのでこのままでは天皇の実父が摂関家よりも序列が下になってしまいます。これに不満を抱いた天皇は法改正が不可能ならばせめて父に上皇の尊号を贈りたいと幕府に要望しました。

これに強硬に反対したのが老中・松平定信でした。天皇は尊号宣下を強行すると宣言するなど朝幕間で緊張は高まりましたが、結局は天皇が折れて親王に加増するなどの待遇改善を幕府が約束したことで断念しました。典仁親王は生前に上皇にはなれませんでしたが明治になって明治天皇の高祖父にあたるということで慶光天皇太上天皇諡号と称号を贈られました。余談ながら松平定信は同じ頃に将軍・徳川家斉が実父の治済に大御所の称号を贈ろうとしたのにも治済が将軍になっていないとして反対しました。天皇の要望を拒絶した手前将軍の願いをも拒絶せざるを得ない立場になってしまったわけですがこれによって将軍の不興を買った松平定信は失脚してしまいました。因みに光格天皇は生前に上皇になった最後の例で典仁親王は死後に上皇追号されたこれまた最後の例です。

上記は死後に上皇とされた例ですが当然生前に天皇に即位した事実もなしに上皇となった例もあります。その一つが守貞親王で同母弟の後鳥羽上皇承久の乱で失脚するとその後裔による皇位継承を認めない方針の鎌倉幕府によって息子の後堀河天皇が即位した事によって治天の君として上皇の尊号を与えられました。これは天皇に即位していない者が上皇となった最初の例で異例の事でしたが後鳥羽上皇の子孫がことごとく配流・出家・臣籍降下してしまっては他に該当者がいなかったための処置でした。

それでは続きはまた。

 

守護大名と戦国大名

大名とは大きい名主という意味で武家社会では大きい所領と多くの家来を持った領主を指します。対してちっちゃい土地しかない領主を小名と言います。その定義は曖昧で江戸時代は一万石以上の領主を大名としていましたが武家諸法度には五万石以下の小名という記述もあり小大名を小名とする例もありました。

戦国大名とは全国に割拠して覇を競った比較的大きな所領を持った武将たちの事ですが何をもって戦国大名と言うのでしょう。とくに守護大名から転身した人は何をもって転身したと言えるのでしょうか。

ここで守護大名について説明します。鎌倉時代に軍事・警察権しか行使できなかった守護が南北朝の争乱で刈田狼藉の検断権、使節遵行権、半済令による年貢の半分を徴収する権利を与えられ地元の武士への支配力を高めていったのが守護大名です。

検断だの遵行だの言われてもわからないと思いますので説明します。刈田狼藉とは当時の重層的な土地支配で自分の権利を示すために作物を刈り取る実力行使で鎌倉時代以降に多発したため狼藉とされました。検断とはそれを裁くという事で鎌倉時代は侍所や六波羅探題検断方の指示で守護が行使していたのを南北朝の争乱で守護の権限とされました。使節遵行権とは幕府の命令を強制執行する権限でどういう事かと言うと当時は所領争いの訴訟で必ずしも幕府の裁定に当事者が従っていたわけではなかったので使者を現地に派遣して裁定を執行したわけです。そして半済令による年貢の半分を徴収とは荘園領主などに収められる年貢の半分を徴収できる権利で、これらの権限を与えられた事により守護は国内の武士の被官化つまり家臣化を進め荘園への侵食を促進していったのです。鎌倉時代とは権限が大きくなったために守護大名と呼ばれたのです。

しかしながら守護がすべて守護大名になれたわけではありませんでした。任国内の地元武士の被官化に失敗したりそれどころか抵抗にあって任地に到着できないといった事例もありました。また地元の武士つまり国人領主の中には幕府と直接的な主従関係を結ぶ者もいました。こうする事で守護の介入を阻止しようとしたのです。また幕府は公家や寺社の領地に守護不入権を認めて守護の介入を禁じたりもしました。

そうした制約はあったものの鎌倉時代と違って任国内の武士の家臣化が容易になった事には違いなくまた経済力もつくようになった事で守護大名の中には幕府が脅威を覚えるまでに勢力を拡大させた者もいました。反対に将軍の土地は南朝方に奪われたり自軍への恩賞にされてしまったりで財政基盤は大きくありませんでした。そういった事情で足利幕府は守護大名の連合政権の体をなすようになりました。

将軍としてはその状況は好ましくなく歴代の将軍の中には有力な守護大名に掣肘を加える人もいました。しかし、六代目の義教が嘉吉の乱で殺害されて以降は将軍親裁を目指した人はいたものの追放されたり最悪の場合殺されたりもして将軍の権威は失墜してしまいました。だから戦国乱世の時代になったんですが。

将軍権威の失墜は守護の没落を招きました。どんなに強大な守護大名であっても守護職というものが将軍から任命されるものである以上はその権力を保証するのは幕府の安泰に他ならず事実大乱で幕府が混乱状態に陥ると地方では下克上による守護の没落が始まったのです。こうして守護大名に取って代わったのが戦国大名ですが冒頭に記したように守護大名から戦国大名になった人もいました。彼らは幕府の力を借りずに領国経営ができるようになって戦国大名となったのです。

幕府の力を借りずにというのは別に幕府からその国の守護に任命されずとも国内の武士を統率できるという事です。また寺社などが幕府から認められた守護不入権も否定して場合によっては自分の名で与え直すことでそれらも支配下に置いていきました。駿河今川氏のように分国法でそれを規定するのですが、この分国法を幕府にはかることなく発布できたら戦国大名だというのが一つの定義となっています。

しかし、それで将軍の存在が無価値になったわけではありません。守護大名と違って戦国大名は幕府に依存しなくても領国経営が可能ですがその領国を維持発展していくには幕府の権威は十分に利用価値があったのです。つまり幕府の存在は戦国大名にとって絶対的なものではないもののその権威はライバルとの争いで利用できるものということです。例えば武田信玄信濃守護職に任命されていますが、これによって武田家に国を逐われた信濃の領主の帰還支援という名目で信濃に侵入する上杉謙信大義名分で優位になるからです。

このように利用価値がまだあることによって足利将軍家は辛うじて存在することができたのですがそれについては別の機会にしたいと思います。

 

戦国時代②

足利幕府がグラグラになって戦争抑止力がガクンと低下すると各地で紛争が頻発するようになりました。お殿様クラスなら戦う理由は領土の拡大、その家来の武士なら手柄を立てて恩賞をもらう、末端の兵士なら略奪となります。

戦争には必ず始まるには理由があります。いくら戦国時代だからといって思いつきで戦争が始まるわけではありません。戦う理由は前述したとおりですが、末端の兵士の略奪というのはどういう理由か。末端の兵士とは足軽や雑兵と呼ばれた人たちです。織豊政権の前は兵農未分離で戦に百姓が駆り出されたとされていますが実際は村々から動員したのは事実ですがそれは百姓ではありませんでした。

村々にとって若者は大事な働き手です。それが戦争のたびに駆り出されたのでは農作業などできません。そこで平素から兵隊となる人員を囲って動員がかかると差し出したのです。村にとっては員数外なので戦死したとしても大した損害にはなりません。こうした村の余剰人員は自分が生きていくにはまず他者から奪う必要がありました。それが略奪でありこの時代に戦争が頻発したのも大名が略奪の機会を与えてやるためでした。戦国時代以前は農繁期に戦はしなかったとも言われてましたが実際には農繁期・農閑期関係なしに戦は起きていました。

さて、村々の余剰人員はどうして発生したか。いくら働き手を取られたくないからって代わりに差し出す人員が無ければ領主の求めに応じて貴重な人材を提供しなければなりません。もっとも当時は村単位で武装していたので一方的に人材を取られたわけではありませんでしたが。その代わりの人材をどう確保したか。さぞかし確保に苦労しただろうと思われるでしょうが、この時代はどの村でも余剰な人材は売るほどいました。

実はこの時代は世界的な寒冷期で食糧が不足していました。どこの土地も食料に困っていてそのために略奪のための戦争が起きたのです。そして食料不足は常に村々に余剰な人員を生じさせ、それらは生きていくために兵隊となりました。戦国時代に戦争が相次いだのは軍隊を構成する兵隊の確保に困らなかったからです。織田信長が周囲を敵に囲まれながらも敗北しなかったのは彼が大都市圏を支配していて兵隊の補充が容易だったからです。

信長はその損害回復能力で強敵との死闘を勝ち抜き、彼の後を受け継いだ豊臣秀吉によって戦乱の原因となっていた自力救済は否定され、さらにその後を受け継いだ足利幕府とはえらい違う強大な軍事力を保持した徳川幕府によって日本はようやくにして平和な時代を迎えたのでした。

雑記①

どうにか1件目を投稿できました。作り始めて数日かかりました。まあ途中で作り替えたりしたのもありますがちょっとペースが遅いですね。更新の速度を速めていきたいんですが時間的にどうも。まあ慣れてきたら更新も早くなるかと思います。拙い文章で読みにくいかとも思いますがよろしくお願いします。

戦国時代①

戦国時代は始まりがいつか諸説があります。昔は応仁の乱が始まりというのが一般的だったかと思いますが、近年では明応の政変というのが有力みたいです。他にも伊勢宗瑞の伊豆侵攻からという説も聞いた事があります。

それはさておいといて、戦国時代というからには日本中で戦争が起きていたというイメージがあるかと思います。無論そうなのですが、ではそれ以前の日本には戦争が無かったのでしょうか。

江戸時代の平和なイメージから足利幕府も鎌倉幕府もそうではなかったかと思う人もいるでしょうが実際はそうでもありませんでした。

近世になる前の日本には紛争を当事者で解決する自力救済という概念がありました。解決といっても話し合いではありません。武力を用いた解決です。それが武士だけでなく農民なども村同士の諍いを武器でもって解決していました。織豊政権以前の日本は武士だけでなく百姓や僧侶なども武装していたのです。

現在の歴史教育がどう教えているかわかりませんが、鎌倉幕府には武士の所領をめぐる訴訟を取り扱う機関があると教わったかと思います。その継承である足利幕府にもそうした機能があるはずです。しかし、日本全国の訴訟をすべて取り扱うのは不可能でした。また、判決が下りてもそれを履行するという問題もありました。鎌倉幕府も足利幕府も判決を徹底させる力が不足していました。なので幕府にはからずに自分達で解決しようという事になるのです。

暴れん坊将軍をイメージしてください。城中では悪者も上様に跪いていますが自分の屋敷内では刃を向けてきます。室町時代でも山名氏や大内氏などは将軍に刃を向けて成敗されています。また、直接将軍に反逆しなくても幕府に任命された守護を拒否して抵抗した事例もあります。戦国時代が始まる前から日本は戦闘とは無縁ではなかったのです。特に関東では応仁の乱が勃発する前から享徳の乱と呼ばれる大乱が起きていました。

では戦国時代とその前とは何が違うのでしょうか。一つは幕府の影響力が著しく低下した事です。戦国時代を象徴する言葉に下剋上があります。身分が下の者が上の者を実力で倒して取って代わるという事です。これは幕府の権威が衰えていなかった時代では討伐される危険があるのでできなかった事です。しかし、応仁の乱で将軍家が分裂すると越前の朝倉氏のように守護にしてもらうという条件で敵方に寝返って主君である守護と対決する者が現れました。

応仁の乱はほとんど誰も得るもの無く終わりました。疲弊した守護たちに待っていたのは配下からの挑戦でした。支配を維持して戦国大名に転生できた者がいる一方で多くの者は没落していきました。応仁の乱以前では考えられなかった事でした。しかしながら守護権力の低下は乱以前から見られた事です。守護代は将軍からしたら陪臣になりますから幕政には参画できない立場でしたが、応仁の乱勃発前ごろになると幕政に影響力を及ぼす守護代クラスも出てきました。主君の守護よりも発言が重んじられてもいました。彼らが守護に取って代わらないのも守護を任命するのは幕府でありそれに背く事は将軍への反逆を意味するからです。だから乱で幕府の権威が失墜すると全国で下剋上の嵐が吹き荒れたのです。こうしてもとから平和などではなかった日本はさらなる戦乱へと突入していったのです。